〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/18 (日) 清盛の盛衰 H 
○以仁王 (モチヒトオウ) の乱の舞台・宇治 A

橋合戦に話を戻そう。
源平の合戦といいながら、その勝敗に大きな影響を与えたものがある。
寺院間の勢力競いだ。
当時の寺社社会はいちじるしく世俗化していた。僧侶の多くは初めから求道を志したのではなく、宗教を立身栄達の手段としてしか考えていなかった。もちろん立派な修行僧もいただろうが、小数になっていた。
『平家物語』 には延暦寺、円城寺 (通称三井寺) 興福寺の僧兵が出てきて、大衆 (ダイジュ) と呼ばれる。
大衆は次第に政治力をつけ、武装化を始めた。彼らを明らさまに “悪僧” と指摘する声もある。
「山法師」 と呼ばれる延暦寺の僧兵は平家寄り、もとは延暦寺の別院であた円城寺は 「寺法師」 と呼ばれて源氏寄り、 「奈良法師」 と呼ばれる興福寺は藤原氏の氏寺で、平氏に対して反感を持っていた。
一時は強訴を起こすなどしていた延暦寺はこの頃は静観の構えで、代わって園城寺と興福寺が結託して、以仁王頼政側につき、平氏に夜討ちをかける段取が整った。
といっても勝手に合戦を始めるわけにはいかない。 『平家物語』 においては、後白河法皇が出す院宣が絶対的な力を持ち、次に皇太子や親王などが出す令旨が人々を動かす命令状のようなものであった。
今回は以仁王が平家打倒のため、諸国に潜伏する源氏に挙兵を命じる令旨を出した。これが源行家の手によって伊豆で流人生活を続けている源頼朝や、木曽の冠者源義仲の許へと届けられたのであった。
かくして合戦の火蓋は切って落とされた。
ところが戦に慣れない以仁王は、円城寺から奈良の興福寺へ向かう途中、宇治までの間で六回も落馬した。数日間不眠のため疲労しているのだろうということで、平等院で休息する事になった。平等院は円城寺の別院なのである。
だが平氏軍は平知盛を大将に、大軍二万騎で寄せてきている。それを知り、宇治橋の板を二間 (約3.6メートル) ほど引き剥がし、通交できないようにした。そうとは知らない兵士軍は勢いをつけて橋を渡ろうとし、先頭は人馬もろとも宇治川に落ちてしまった。

橋を渡れないため、宇治川を挟んでの合戦となった。
この辺りの 『平家物語』 の描写は、いよいよ軍記物語の本領発揮という感じで、実に生き生きとしている。
冷静に考えて、宇治川の流れを攻略した側に勝機がある。源氏方の円城寺の僧兵の何人かが、橋桁を伝って平氏方へ切り込んできた。
だがこの方法では時間がかかる上に、人数も限られる。矢張り思い切って宇治川を渡るしかない。だが五月雨の直後とあって、水嵩が増し、渡るのは危険な状況だ。
ここに登場するのが、平氏方の東国の若武者足利忠綱十八歳である。忠綱は褐 (カチン) の直垂 (ヒダレ) に、赤革の鎧を着て、白月毛という馬に金覆輪の鞍を置いて、騎乗したまま鐙 (アブミ) 踏ん張り、突っ立ちあがり、まず名乗りした上でいう。
「私はまったく無冠無位のの者であり、以仁王に弓を引くのは恐れ多い事とは思いますが、今日は太政入道殿 (清盛) のために戦います。以仁王の味方の中で、自信あるお方はお相手しましょう」
源氏方を挑発する言葉である。
実はこの忠綱、東国育ちということもあり、若いにもかかわらず、馬の扱いに長けている。忠綱は平氏の先頭に立ち、宇治川を馬で大挙して渡り、以仁王のいる平等院へ攻めるつもりだ。そのため馬の扱いに慣れていない平氏軍に下知を飛ばす。
「強い馬は上流に立て、弱い馬は下流に入れよ。馬の脚の届く限りは手綱を緩めて歩ませよ。浮いたら、引き締めて泳がせよ。馬の頭が沈んだら引きあげよ。強く引きすぎて、ひっくり返すな。馬には弱く、水には強くあたるべし。敵に射られても射返すな。常に錣 (シコロ) を前に傾けよ。だが傾けすぎて、天辺の穴を射させるな。流れに逆らわず、渡せや渡せ」
このような方法によって、馬で川を渡ることを 「馬筏 (イカダ)」 というそうだ。
それにしても忠綱の言葉は人生哲学を語っているようである。恐るべき十八歳だ。東国は戦乱が続いた事情もあり、若武者であっても戦術を身につけていた。
今は味方につけているが、やがてこのような東国武士を敵に回す日がくる事を、平氏は知る由もなく、ただ忠綱の言葉に従い、宇治川を渡っていく。忠綱が率いた三百騎は渡ったが、射賀や伊勢から駆けつけた六百は流された。
流されたうち、三人の武者が網代にかかって揺られている。
源氏がからかって歌を詠む。
「伊勢武者は みな緋縅の 鎧着て 宇治の網代に かかりぬるかな」
合戦といえども、悲惨な印象を受けないのは、最初の合戦ということで両軍とも戦力を温存している上に、忠綱のような若武者の活躍、和歌を詠めるような余裕があるせいか。但し合戦は合戦だ。勝者がいれば敗者もいる。
合戦の最中、以仁王は奈良へ逃げたが、老兵の頼政は深い傷を負った。ともに戦った息子の兼綱は討ち死にした。
勝者よりの敗者に優しい目を向けるのが 『平家物語』 の特徴だ。
頼政は最期と覚悟を決め、静かに念仏を唱えた後、辞世の歌を詠んだ、
「埋れ木の 花咲くことも なかりしに みのなるはてぞ かなしかりける」
頼政が自害して果てたのは、平等院の観音堂の傍らにある “扇の芝” であった。
今は石柱で、三角形に囲まれ、自然石が置かれている。辞世の歌を刻んだ碑も建っている。
頼政の首は生き残った源氏方によって、宇治川深く沈められたという。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ