〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/17 (土) 清盛の盛衰 G 
○以仁王 (モチヒトオウ) の乱の舞台・宇治 @

『平家物語』 において、平氏と源氏との最初の合戦となるのは、治承四年 (1180) 五月二十三日、宇治橋で行われた橋合戦である。
平清盛を頂点として、平氏が栄華と横暴を極め、そこへ平治の乱 (1159) 以後、長く潜伏していた源氏がいよいよ動き出したという流れである。
宇治川では四年後の寿永三年 (1184) 源義仲と源義経の宇治川での戦いで、橋合戦とは別のものである。
宇治市の中央を大きく蛇行しながら流れる宇治川に架かる宇治橋は十円玉の絵柄としても有名な平等院鳳凰堂の北側にある。京、奈良、北陸に通じる交通の要所で、何度か架け替えられ、現在架かっているのは、半世紀前に造られたコンクリート橋だ。幅89メートル、長さ155メートルという。

宇治川の上で、なぜ源氏による合戦が行われたのか。
ここに二人の人物が登場する。
後白河法皇の第二皇子の以仁王と、源頼政である。
頼政は平家全盛の時代にあって、従三位となり、歌人としても知られる。この時七十七歳 (喜寿) た。この頼政が、継母の建礼門院滋子 (清盛の妻時子の妹) の妬みのため、不遇に過ごしていた三十歳の以仁王に、平家打倒を進言したのが、そもそもの源平の合戦の発端といわれる。合戦の折には諸国に潜伏している源氏を喚起するからと説得したのだというのである。
それにしてもなぜ喜寿にもなった頼政が、平家打倒の先鞭をつけたのか。
その理由を 『平家物語』 は、かって清盛の子の宗盛が行った非道の振る舞いが原因としている。
頼政の子の仲綱は 「木の下」 という名馬を持っていた。宗盛はこの名馬を欲しがり、仲綱がしぶしぶ贈ると、宗盛は仲綱が惜しんだ態度が気に食わぬと木の下を手荒く扱った。仲綱同様、頼政もこの恥辱に憤り、以仁王に謀反を進めたのだというのだ。
実はこの話には後日談があって、宗盛は愛馬の 「南鐐 (ナンリョウ) 」 を、頼政の家来で、後の宗盛の家来となった滝口競 (イオウ) に贈った。ところが競は南鐐を得た後、宗盛のもとを脱走して、再び頼政の方についた。そこで仲綱は喜び、南鐐の尾や鬣を切って 「宗盛」 と焼印して宗盛の許へ返した。
宗盛は競に逃げられた上に、馬の仕返しをされ激怒した・・・・・。
なんだか子供の喧嘩のように思える。
仮にここに原因の一端があったにしろ、思慮のある老武将が以仁王を担ぎ出すようなこととは思えない。
そこでもう少し詳しく頼政の経歴を調べてみると、六十二歳の時に初めて昇殿を許され、従三位に叙せられたのは七十五歳。この時頼政は病を得ていて、情実による人事だったのである。
と考えると、謀反の企ての背後に黒幕がいても不思議ではない。通説では、以仁王の父である後白河法皇が、清盛のクーデターによって鳥羽殿に幽閉された事を恨みに思い (この時には幽閉は解かれている) 、頼政に挙兵を勧めたといわれている。
今後、源氏と平氏との勢力の転換点には、必ずといっていいほど顔を出す後白河法皇であれば、大いに考えられる話ではある。
蛇足ながら、頼政は 「鵺退治」 の話でも知られる。
後白河法皇の弟に当る近衛天皇の時代、天皇が夜な夜な御所の上にかかる黒霊に悩まされた事がある。あらゆる呪術、秘法を行っても治らなかった。
そこで頼政が召し出され、弓を引いたところ、何かが庭に落ちた。これが鵺で、頭は狸、尾は蛇、足と手は虎の姿をした化け物であったという。
真偽の程はともかくとして、頼政が後白川法皇方から信頼を寄せられるに至ったことが伝わる逸話ではある。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ