〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/16 (金) 清盛の盛衰 F 
○清盛の栄華をいまに遺す厳島 B

厳島神社の西廻廊を進み、出口へ向かう。
今でこそ出口であるが、清盛が厳島神社を造営した頃は、こちらが入り口であった。
参拝者の為に特に体裁を整えた唐破風造りで、本来は出口 (現在は入り口) の切妻造りと比較してみるのも一興である。現在の出口を出ると、宝物館があり、国宝とともなっている平家納経が収蔵されている。
平家納経は法華経二十八巻、開結の無量寿経一巻、観普賢経一巻、阿弥陀経一巻、般若心経一巻、清盛の奉納願文一巻 の計三十三巻からなる。
清盛の願文によれば、長寛二年 (1164) 九月、清盛や息子の重盛、弟の経盛、教盛、頼盛ら平家一門の人々が各一巻ずつ結縁書写して奉納したとされる。各巻とも金銀の優美な金具で飾られた表紙に、経の大意を描いた美しい見返り絵をつけ、水晶制の軸にも金銀の装飾金具をつけて螺鈿するなど、当時の工芸技工の粹を尽くしている。平安時代に流行した装飾経の最高峰を示すともいわれる。
但し、宝物館に常時展示されているのはレプリカである。本物は毎秋五巻ずつ、ごく短い期間のみ公開される。

平家全盛期の雅さを伝えるものとして、もう一つ忘れてならないのは管弦祭である。管弦祭は、旧暦六月十七日 (太陽暦では七月中旬) に行われる厳島最大の神事であり、清盛が京の社寺などで行われていた管弦を厳島に移して、船上で催したのが始まりといわれている。
祭りの主役ともいうべき御座船では、三管 (笙 (ショウ) 、ひちりき、笛) 、三絃 (和琴、琵琶、筝 (ソウ) ) 、三鼓 (羯鼓 (カツコ) 、太鼓、鉦鼓 (ショウコ) ) による唐楽十一曲、催馬楽 (サイバラ) 一曲が奏でられる。
夜の深まりとともに船の灯りは美しく輝き、さながら平安絵巻を見るようである。
夜といえば、厳島を観光するなら、日中だけでなく、ぜひ夜も予定に組み込んで欲しいと思う。日中は多くの観光客で賑わっていた島が、打って変わって静寂に包まれる。静寂の中で、打ち寄せる波音に耳を傾けていると、ふと往時が偲ばれる。
清盛の時代、厳島には一般の人々は住んでいなかった。また特別な宿泊施設もなかったといわれる。男性が宿泊する場合、内侍と呼ばれる女性が身の回りの世話をしたようだ。内侍は遊女のような役割をしていたらしい。清盛も内侍の一人を妾にし、その内侍が生んだ娘を後白河法皇の妾にしている。

平家一門の厳島詣では、清盛が安徳天皇の外舅となり権勢をふるうようになってからも変わりなく続いた。
治承四年 (1180) ----
高倉天皇は二十歳という若さで、わずか三歳の安徳天皇に譲位し、上皇となった。その直後の三月十九日に京を出航し、三月二十六日から二十九日までの四日間、中宮である徳子とともに厳島に滞在している。その時の記録は、 『高倉上皇厳島御幸記』 として今に伝わっている。
高倉上皇は、父が後白河法皇、母が清盛の妻時子の妹に当る建礼門院滋子、妻が清盛の娘の徳子である。そのため鹿ケ谷の陰謀が露見した後は、後白河法皇と清盛の間に挟まれ、高倉上皇の心労の種となっていた。
しかもご白河法皇と清盛の、もう一人のクッション役であった重盛が四十歳で急死してしまう。
後白河法皇が重盛の死を悲しむ様子も見せず、管弦の遊びをしていたことに清盛は立腹し、治承三年 (1179) 後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。
これはクーデターであり、清盛が天下を掌握する格好となった。高倉上皇が安徳天皇に位を譲った背景には、政変があったのである。
譲位直後、高倉上皇が厳島神社に詣でたのは、清盛に対するご機嫌伺いという側面が強い。高倉上皇は、同じ年の秋にもやはり徳子と厳島神社に詣でている。
ところが翌年、またも不測の出来事が起きた。
高倉上皇が二十一歳という若さで崩御したのだった。
高浦上皇の死は、重盛の死に続き、後白河法皇と清盛との間のクッション役が完全に消えた事を意味する。
ここにきて、後白河法皇と清盛との対立の構図は鮮明となった。しかも情勢を見極めたように、源氏が後白河法皇方について、いよいよ源平の合戦の火蓋は切られることになるのだ。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ