〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/16 (金) 清盛の盛衰 E 
○清盛の栄華をいまに遺す厳島 A

廻廊をさらに歩いていくと、平康頼ゆかりの燈籠がある。
治承元年 (1177) 鹿ケ谷の陰謀で、平家打倒を企てた者のうち、康頼、俊寛、藤原成親の子の成経の三人は鬼界ケ島に流罪となった。鬼界ケ島は九州の南西海上にある流刑の島で、 『平家物語』 では硫黄ケ島と呼ばれたとも書かれている。
流された三人のうち、康頼と成経はかねがね熊野三由を信仰し、鬼界ケ島においても似ている地形を見つけて本宮、新宮、那智と名前を付け、熊野三所権現を祀った。 だが俊寛一人は信心がなく、見向きもしない。
康頼は都を恋しく思う気持ちを歌に詠み、千本の卒塔婆に書き付けて流した。
するとその一本が厳島に流れついた。しかも拾ったのは康頼の知り合いの僧侶であった。
卒塔婆には次の歌が記されていた。
「薩摩かた 沖の小島に 我ありと 親には告げよ 八重の潮風」
その後、康頼と成経は、都へ帰ることが許された。
厳島神社内にある燈籠は、康頼が都へ帰った後、感謝の思いを込めて、寄進したものといわれるが、現在は傷みが激しく、観光客の目にはあまり触れない場所に置かれている。
尚、 『平家物語』 では、二人が都へ帰ることを許された具体的な理由として、清盛の娘徳子の妊娠に伴う大赦をあげている。
徳子は後白河法皇の第七皇子である高倉天皇に嫁ぎ、男子誕生ともなれば、清盛は外舅としていよいよ権勢をふるうことができる。
ところが徳子は着帯後、物の怪に悩まされるようになった。そこで霊祓いのため、大赦を行う事にしたのであった。
その甲斐あってか、徳子は男子 --- 安徳天皇を無事出産した。清盛自身も、徳子受胎後は、毎日のように厳島神社に詣でていたから、願いが叶った事で、ますます厳島信仰を深めた。
一方、鬼界ケ島に一人取り残される事になったのが俊寛である。かっての行状に加え、信心が足りないからという理由も暗黙裡に語られて、この辺りに仏教の影響を受けた 『平家物語』 の素顔が覗く。
「一緒に連れていってくれ」
足摺りして、狂わんばかりに哀願する俊寛の様子は、歌舞伎の材ともなっている。
俊寛の後日談として、かって俊寛と交流のあった有王が、鬼界ケ島まで俊寛を訪ねていくという話が 『平家物語』 に載っている。だが瞬間の行方は杳として知れない。ある日、蜻蛉のように痩せた男性がよろめきながら歩いているのを見かける。
俊寛であった。俊寛は生きる気力を失い、食を断っていたのだった。程なく俊寛は亡くなる。三十七歳であったという。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ