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2007/03/15 (木) 清盛の盛衰 D  
○清盛の栄華をいまに遺す厳島 @

日本三景の一つ、安芸の宮島。
広島県の西部、瀬戸内海上に横たわる周囲30キロメートル余のこの島は、正確には厳島と呼ばれる。神々を斎 (イツ) き (あがめる) 祀るという意味があり、かっては島全体が信仰の対象とされていた。
弥山 (ミセン) の山頂 (530メートル) を鼻、稜線を額や口に見立て、 “寝観音” にも喩えられる。
平成八年 (1996) には世界遺産にも登録され、多くの参詣客が訪れる観光の島として賑わっている。

宮島桟橋から土産物屋街を抜け、少し歩くと、右手に厳島の象徴とも言うべき朱塗りの大鳥居と、厳島神社の社殿が見えてくる。満潮時に訪れれば、大鳥居も社殿も、海中に建っているように見えるだろう。
さながら龍宮城を思わせるこの建造物を造ったのが、平清盛である。
音戸の瀬戸の開削工事をした頃、清盛は安芸の守を務めていた。父の忠盛も播磨の守、備前の守、讃岐の守などを歴任しており、平氏は瀬戸内海沿岸とは縁があったのだろう。
若い日の清盛はこのような立場を利用し、瀬戸内海の制海権を手に入れた。
瀬戸内海は古くから、京と急襲とを結ぶ物資流通の重要な経路であった。ただ海賊が横行して被害も少なくない。
そこで清盛は先ず海賊を制圧、続いて瀬戸内海を航行する船から通行料を徴収した。これによって巨額の財を築き、さらに大宰府を拠点に、対宋貿易を本格的に展開しようと考えた。
清盛は政治的手腕を発揮する一方で、商人としての先見性も備えていたわけだ。
また古い習慣に縛られる事を嫌い、京以外にも新しい氏神を持ちたいとも考えていた。
清盛は信仰が、人心を掌握する手段として極めて有効である事を知っていた。
海の荒くれ者である海賊さえ、船底一枚下は地獄である。死ぬ事は恐い。いざとなれば、神仏にすがろうとする。
そこで考えたのが、海上の守護神である。こうして清盛の目は、瀬戸内海に横たわる厳島に向けられた。
厳島にはもともと小さな社があった。神社創建は推古天皇即位元年 (593) と伝えられる。
清盛は当時の神主であった佐伯景弘に命じ、現在のような社殿を造営させた。といっても工事は二十年近くかかったようで、完成は仁安三年 (1168) 頃、清盛が五十歳前後といわれる。
この経緯について、 『平家物語』 では、清盛が安芸の守であった頃、高野山の根本大塔の修理を命じられた話を載せている。
根本大塔とは、弘法大師が高野山を開く際、真言密教の根本道場として建立した事から、根本大塔と呼ばれるようになった。彩やかな朱色をした二十多宝塔である。
清盛は六年かけて根本大塔の修理を終え、その後高野山を参詣した際、不思議な老僧に会う。
老僧は清盛に、荒廃した厳島の社も修理することを勧めて消える。老僧は弘法大師の化身であった。そこで清盛は言葉に従い、厳島に社殿を造営したというのである。
厳島の最高峰である霊峠弥山には、弘法大師に纏わる多くの伝承が残っている。だが実際に弘法大師は厳島を訪れていない。
それらを考え合わせると、伝承は、清盛が厳島に着眼後、多少意図的に広められたように思えるのだが、真偽の程はわからない。

さて厳島神社に入ってみよう。
厳島神社は、平安時代の寝殿造りの建築様式を取り入れているといわれ、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、高舞台、客人神社、能舞台、楽屋などが、朱塗りの百八間の回廊によって結ばれている。
百八間の 「百八」 とは仏教でいう煩悩の数であり、神仏習合の名残という。
能舞台と楽屋は戦国時代の武将毛利元就が寄進したもので、清盛の時代にはなかった。
それにしてもなんと奇想天外な発想から造られた神社であろう。江戸時代に確立された 「わび、さび」 の文化とは対極のところにある建造物だと思う。
宋との貿易にあたり、清盛は異文化について研究を重ねたのではなかろうか。現在も高舞台で奉納される舞楽は、奈良平安期に盛んになり、厳島には清盛が伝えたという。奇抜な画や艶やかな衣裳には中国のみならず、インドの影響も感じられ、清盛の異国への傾倒ぶりが伺える。
清盛の舶来趣味が、従来の習慣を破ろうとする強い意志となって完成したのが、厳島神社であると思う。
とともに厳島神社を造営していた頃の清盛は三十代か四十代にかけての、人生の壮年期を迎える年代であり、前途に洋々としたものを感じていたに違いない。そうでなければこんな風に遊び心のある建造物を造れるはずはないからである。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ