〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/14 (水) 清盛の盛衰 C  
○京都六波羅、嵯峨野の女人、俊寛の鹿ケ谷 B

『平家物語』 に登場する女性に、白拍子がいる。
白拍子は主に酒席で、舞を舞いながら今様 (平安時代の流行歌で、普通七五調の四句から成る) を歌うという芸を持つ女性で、単なる遊女とは一線を画している。
この種の女性は、呼び名こそ変わっても、多くの時代にいるもので、権力を持ったり、またこれから権力を持ちたいと考えている男性と結ぶつくことが多い。
『平家物語』 では、源義経の愛妾の静御前が白拍子出身であるが、とりわけ有名なのは前半にある 「祗王の章」 である。
白拍子の祗王は、清盛の寵愛を受けているため、毎月米百石と銭百貫をもらい、母のとじ、妹の祗女との生活が保証されていた。
ところが寵愛を受けて三年目、加賀出身の仏という十六歳の白拍子が現れる。
なかなか勝気な女性で、西八条にある清盛の別邸に乗り込み、 「自分の舞を見て欲しい」 と頼む。
清盛は、初め失礼な女性ということで追い返すが、二度目に訪れた際には祗王の取りなしで、見るだけでも見てやろうという気になる。
すると仏は舞いも上手ければ、今様も上手い。たちまち清盛の心を掴んだ。
清盛は祗王に対して掌を返したように冷たくなり、代わりに仏を寵愛するようになる。祗王は仏を取りなしたばかりに、せっかく掴んだ座を、仏に奪い取られる形となり、清盛の許を去らねばならなくなった。
祗王は死ぬ事も考えるが、母を思うとそれも出来ず、ついに尼となった。母のとじも妹の祗女も尼になって、三人は嵯峨野の山里に移り住んだ。
それが祗王寺である。
だが話はそれだけでは終らない。
祗王の末路を知った仏は、やがては自分も同じ様な運命をたどるのかと思うと、たまらない無常観を覚えた。
ある秋の夜、祗王寺の戸を叩く者がある。戸口を開けると、仏が立っている。しかも尼に姿を変えている。
祗王、とじ、祗女、そして仏の四人は再会に感涙し、以後祗王寺に籠って、念仏を唱えつつ、世を終えたという。
栄華を極めた者が、やがて没落するという意味で、 『平家物語』 の主題を短く表現した章ということになろうが、男性中心の話が多い中で、数少ない女性の生き方が綴られた名高い章でもある。
この祗王寺は、往生院と呼ばれていたものを、四人の尼に因んで祗王寺と改めたという。
訪れてみると、想像通りひっそりとした寺である。
素朴な茅葺門を入ると、境内には本堂があるだけで、仏間の中央には本尊の大日如来があり、左右に清盛と四人の木像が安置されている。
境内には四人の尼の墓と、清盛の供養塔が並んで建っている。清盛の供養塔が、どこか居心地悪そうに建っているように見えるのは、考えすぎであろうか。
話は少々逸れるが、祗王寺の南隣にある滝口寺は、高山樗牛の小説の主人公としても有名な、滝口入道と横笛との悲恋を伝える寺である。
滝口入道は重盛の家臣だった人物で、建礼門院の雑仕女 (ゾウシメ) の横笛に恋するが、身分の違いのため、父の許しを得られず、出家する。
滝口寺は往生院 (祗王寺) の子院三宝院があったところで、昭和初期に滝口寺としたという。
横笛は滝口入道への思いが高じ、往生院で修業している滝口入道を訪ねるが、滝口入道は仏に仕える身であることを理由に会おうとせず、横笛は悲しみのあまり、大堰川に身を投げたとも、出家したともいわれている。
一説には、横笛は滝口入道が修業した高野山まで会いに行ったともいわれ、高野山には 「横笛の恋塚」 が残っている。
出家しても後白河法皇や清盛のように、現世で権力争いを続ける男性達がいれば、一方で滝口入道のように、非常なまでに仏道を極めようとする者もいる。
女性の場合も、祗王や仏のように、完全に俗世を離れる者がいれば、池の禅尼や二位の尼のように多少なりとも、その発言が政 (マツリゴト) に影響を与える場合もある。

『平家物語』 において、大きな転換点となるのは鹿ケ谷の陰謀だ。鹿ケ谷は京都市左京区の大文字山 (466メートル) の麓にある。
ここに俊寛僧都の山荘があり、平家追い落としの陰謀が練られたのだ。
集まったのは俊寛、平康頼、藤原成親らで、後白河法皇も加わった。
後白河法皇は必ずしも皇位につく立場になかったが、皇室の争いのどさくさの中で即位した。人間性には問題があるといわれ、 「暗君」 などと陰口を叩かれながら、権謀術数を弄して、長く権力の座に君臨した。
後白河法皇は本来、平氏とは深い姻戚関係で結ばれている。
後白河法皇の寵愛を受けていた滋子 (建春門院) は、清盛の妻時子 (二位の局) の妹に当り、またこ白河法皇の代七皇子の高倉天皇 (後に上皇) には清盛の娘徳子 (建礼門院) が嫁いでいた。
もっともこのような姻戚関係は、政治的な思惑から結ばれているだけで、後白河法皇から見れば、権力を身につけ、時に自分の立場を脅かすほどに肥大化した清盛の存在が、疎ましく思えていた。
そのため清盛を始め、平家一門の追い落としを画策したのであった。
だが鹿ケ谷の陰謀は、やがて清盛の知るところとなる。
怒った清盛は俊寛、康頼、成親の子の成経を鬼界ケ島へ流す。
一方、清盛は首謀者である後白河法皇の扱いに頭を悩ませる。厳罰に処したいが、如何せん法皇であれば手荒な真似は出来ない。
頼山陽は 『日本外史』 の中で、この苦渋の場面を、 「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」 と書いた。
ちなみに 『日本外史』 は、幕末から昭和初期にかけ、日本人が最も愛読した歴史書である。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ