〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/14 (水) 清盛の盛衰 B  
○京都六波羅、嵯峨野の女人、俊寛の鹿ケ谷 A

平氏が初めて昇殿を許されたのは、清盛の父の忠盛の代になってからであった。
貴族社会において、武力を持つ従順な家臣を持つことは極めて重要になっており、特に保元の乱 (1156) 、平治の乱 (1159) 以後は、清和天皇の孫の源経基の血を引く源氏ともども平氏の注目度は増した。とりわけ、忠盛が重用されたのは、時の白川法皇の北面、すなわち院政の近臣として忠実な働きをしたからだ。
さらに忠盛が異例とも言える出世をした直接の原因は、鳥羽上皇の為に得長寿院を建立し、三十三間の本堂に千一体の仏像を安置するという行いが認められたからといわれている。心よりお金ということか。
この得長寿院は現在残っていない。
京都市東山区に建つ三十三間堂は、清盛が後白河法皇の勅願により造営したものだ。正式名は蓮華王院本堂といい、柱間が三十三間あるので、三十三間堂の名前がついた。
父の忠盛を倣い、同じ様なものを造営したと考えるのが自然であるが、三十三間堂の方が、得長寿院よりスケールが大きい造りではないか。こせこせしたことの嫌いな清盛であれば、父を凌ぐものを造ろうと考えるのが自然であると思うからだ。
実際、三十三間堂内に入ると、中央に大きな中尊千手観音坐像があり、左右に五百体ずつ、高さ1.5メートルの観音像が並ぶ。どの像も金色に輝いて、美しいというより迫力に圧倒される。この驚きは、初めて厳島神社を訪ねた時に抱いた驚きに似ている。

こんな清盛の母について、 『平家物語』 は意外な事実を明かす。
白川法皇は祗園女御という女性と親しくしていた。もっともらしい名前はついていても、素性は祗園の遊女という。この祗園女御が妊った。扱いに困った白川法皇は一計を案じ、忠臣である忠盛に祗園女御を与えるのである。
現代であれば人権問題であろうが、白河法皇からの下賜を断るわけにもいかない。忠盛は表面はありがたく、内心は渋々女御を迎える。
こうして生まれたのが清盛であった。つまり清盛は白河法皇のご落胤なのである。
父忠盛を凌ぐ清盛の出世は、多くを清盛の才覚に負っているとしても、多少とも血筋が影響しているかも知れない。
その後、祗園女御が忠盛や清盛とどのように関わり、どのような人生を送ったかは定かではない。
祗園女御に限らず、女性については多くは伝わっていない。清盛の八人の娘さえ、建礼門院徳子以外、嫁ぎ先やせいぜい二、三人の名前がわかっているだけで、詳細についてはほとんど残っていない。
系図を見ても、 「女」 とか 「女子」 と書かれているのは良い方で、女性として生まれたというだけで、系図から捨てられてしまう場合が少なくない。
このような男尊女卑的な考え方は、おそらく古くからあったのだろうとは思うが、中国から儒教が入ってきて拍車がかかったのではないかと私は考えている。
儒教思想によって貫かれているといわれる 『平価物語』 ではるが、時折この儒教思想が顔を出す。 「大教訓」 という章では、重盛が、 「仁義礼智信」 という儒教の徳目を持ち出して、父の清盛を諌める場面が出てくる。
また 「後白河法皇には忠誠を尽くし、民には哀れみの心を持てば、神のご加護もあずかり、仏陀の深いお心にもかなうでしょう」 と神と仏と儒教思想とを、同列に並べたような発言も見られる。
こうした “いいとこどり” あるいは都合主義は 「語り物」 としての 『平家物語』 を考える時、大衆を相手にしている以上、やむを得ぬ選択であったのだろう。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ