〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/14 (水) 清盛の盛衰 A  
○京都六波羅、嵯峨野の女人、俊寛の鹿ケ谷 @

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。
仏教における無常観の一大原理を告げる、あまりにも有名な書き出しに続いて紹介されるのは、平清盛の生い立ちである。
初めて 『平家物語』 を通読した際、一番驚いたのは、物語の途中で、清盛が病死してしまう事であった。私は 「平家物語』 を清盛の一代記と思い込んでいたのだ。
ある学者によれば、 『平家物語』 には三人の主人公がいるという。清盛、源義仲、源義経である。
隆盛を極めた清盛に凋落の兆しが現れると、義仲が活躍を始め、権力の座についたかに見えた義仲が転落を始めると、義経が彗星のように登場する・・・・・。
というように、三人の人生はまさに 「盛者必衰」 の様を具現化していく。
治承、寿永を中心に、二十年ほどの間に起こった動乱の歴史を描く 『平家物語』 の理解を深める意味でも、先の三人の描かれ方には注目していきたいと思うが、まず清盛に話を戻そう。

清盛は元永元年(1118) 平忠盛を父として生まれ、朝廷の後継者問題に端を発した保元の乱 (1156) 平治の乱 (1159) によって勲功を立て、仁安二年 (1167) 五十歳の時には、武家として初めて従一位太政大臣に昇進した。武将としての最高ポストであり、清盛の弟達、息子達も要職に就き、平家一門は権力を掌中にし、栄華を極めたのである。
清盛は五十一歳の時、病に罹り、それを機に俗世のままに出家し (これを “入道” という) 法名を 「浄海」 と名乗った。
幸い病は治愉したが、清盛の義弟に当る時忠は 「平家一門でない者は人ではない」 と放言する奢りぶりで、平氏を謗る者があれば制裁を加えるなど、 『平家物語』 は冒頭から、清盛を頂点とする平家一門に厳しい批判の目を向けている。
ところで栄華を極めていた時期、清盛並びに平家一門が住んでいたのは、平安京の東にある六波羅である。
六波羅は東山の麓に開けた穏やかな傾斜地で、清盛の邸宅である泉殿を始め、一門の居館がずらりと立ち並んでいたといわれる。
もともと六波羅は、墓地だった鳥辺野への葬送地であり、人々から忌み嫌われていた土地であった。それを承知で、六波羅を選んだのは、都の近く、様々な街道に通じる交通の要所であったからだ。
習慣より実用性を重んじる点が、清盛らしい新しい選択といえるだろう。さぞ広大な光景が広がっていたであろうと思うが、現在は居館跡はない。
清盛は別邸として西八条と福原にも屋敷を構えていたという。これらについても何も残っていない。
現在は京都市東山区となっているかっての六波羅付近を歩いてみると、商店や住宅が立ち並ぶ一角に六波羅密寺がある。
六波羅密寺は、平氏がこの地に住む以前から建立されており、兵士が住むようになって縁が出来たといわれている。
宝物館には清盛の坐像 (高さ八十三センチメートル) が安置されている。出家後の僧形で、手には経文を思わせる巻物を手にしている。目が水晶 (玉眼) であるためか、木製の像にしては生々しい印象を受ける。
とともに重厚さよりも、生真面目さのようなものを感じる。玉眼は鎌倉時代以降の仏像に見られ、この清盛の坐像も鎌倉時代の作とされる。
ところで平家一門は、なぜ栄華を極める事が出来たのだろう。 『平家物語』 によれば、平氏の祖先は桓武天皇の第五皇子の葛原親王で、孫の高望王の時、 「平」 の姓を賜り、その子の国重から、清盛の祖父正盛に至るまでの六代は、地方の国守に任ぜられたものの、宮中の昇殿は許されていなかった。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ