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2007/03/13 (火) 清盛の盛衰 @  
○音戸の瀬戸、清盛権勢の象徴

広島県呉市---。
かって軍港として栄え、今も多くの船舶が出入りする呉港を右手に眺めながら、海岸線沿いを南下し、やがて左折してだらだら続く山道を上っていくと、展望台に出る。
休山 (ヤスミヤマ) (501メートル) の丘陵が広がる一帯は、音戸の瀬戸公園と呼ばれ、晴れた日であれば、穏やかな瀬戸内海の遥か向こうに四国の山々を眺望できる。
この展望台のすぐ近くに建つのが、平清盛の日招 (ヒマネキ) 像 (昭和42年建立) である。清盛は扇を手に、西の方角を向いて立っている。
清盛の視線の先を少々見を乗り出して眺めると、眼下に螺旋状をした朱色の音戸大橋 (昭和36年完成) が見える。その音戸大橋の下、休山側の陸地と、倉橋島の間に横たわる幅90メートルほどの水道が音戸の瀬戸なのである。
今でこそ船の航行に支障はないが、平安時代の音戸の瀬戸は浅瀬で、船は満潮まで潮待ちしなかればならなかった。
ここで登場するのが清盛である。
久安二年 (1146) 安芸の守となった当時二十九歳の清盛は、海の難所を解消する策として開削工事を思いつく。
伝説によれば、清盛は求愛した厳島神社の巫女から、
「開削工事を一日で終えれば、いう通りにしましょう」
と、言われ、一日で工事を終えてしまおうと考える。ところが工事は思うように進まず、やがて太陽が沈みはじめる。
そこで清盛は一計を案じ、懐から金の扇を取り出すと、沈みはじめた太陽を 「返せ、戻せ」 と煽いで、招き返した。そのため巫女の長い願い通り、一日で工事を終らせる事が出来た。
現実に工事が一日で終るはずもないが、この伝説は太陽さえ意のままに操れるほど、当時の清盛の権勢がいかに絶大であったかを物語っている。
もっとも、だからといって 「平家物語」 で描かれているように、清盛が権力を乱用する横暴な人物と、土地の人が考えているかというと、違う。
清盛は音戸の瀬戸を開削し、交通の利便性をよくしてくれた恩義のある偉人であって、土地の人々は敬愛を込めて 「清盛さん」 と呼んでいる。
江戸後期 「日本外史」 を著わした頼山陽 (1780〜1832) も、 「日本政記」 の中で 「清盛の専横は、後白川法皇が然らしめたのである」 とズバリ言い当てている。山陽は広島で成長し、音戸や厳島をたびたび訪ねており、清盛に対しても特別な思い入れがあるのだろう。

先入観抜きに、清盛の業績を振り返ると、保元の亂 (1156) 平治の乱 (1159) で見せた武将としての力量、対宋貿易に着目した先見性、福原遷都という英断など、清盛を日本史上傑出した政治家として再評価する声も多い。
特に戦後、清盛再評価に先鞭をつけたのは、作家の吉川英治 (1893〜1962) ではなかったろうか。
この英治の文学碑が、日招像のある展望台を少し下ったところ、同じ音戸の瀬戸公園内にある。
英治は大衆小説を国民文学まで高めた作家であり、晩年の代表作に 『新平家物語』 がある。英治はこの小説の執筆に際して、音戸の瀬戸を訪ねているのだった。
英治は清盛について次のように書く。
「清盛の人間の良さ、美しさ、優しさ、日宋文化交流の夢など、私の清盛像の方が古典より真実である」
大変な入れ込みようだ。
実際、 『新平家物語』 の清盛は、冒頭から従来の “悪役” 清盛とは異なり、清盛を擁護する細やかな描写が続いている。
英治の文学碑は、紅梅の樹を背に建っており、想像よりずっと小さいという印象を受ける。これは英治の意向を反映させた結果らしい。
ただ文学碑そのものはユニークで、三角の石と丸い石とが寄り添うように建っている。丸い石は清盛を象徴するという。
一方、三角の石には 「君よ 今昔の感 如何」 という文字が英治の筆で刻まれている。この言葉は、同じく 『新平家物語』 の取材旅行で、厳島に立ち寄った際、対岸の広島の街の灯りを眺めながら、清盛に投げかけた言葉といわれるが、音戸においても同様の感慨を抱いたものと思われる。
八百年という歳月が、英治には長くも短くも感じられたのだろう。

音戸の瀬戸公園を後にして坂道を下り、音戸大橋を渡る。日本一短い距離を結ぶという渡し船が、随時運航されているので、それを利用するのも風情がある。
対岸の倉橋島に渡ると、音戸大橋の袂に清盛像がある。ここにも清盛に纏わる心温まる逸話が残っている。
清盛が活躍した時代には、難工事の際に人柱を立てることがあったが、人命を尊重する清盛はこれを避け、仏教の一切経 (仏教聖典の総称) を小石一個に一文字ずつ書かせ、人柱に代えて一ヶ所に埋めて、工事の無事を祈願したというのである。土地の人々はこれを清盛の一字一石の経石といっている。
実はよく似た話が、福原に経ケ島という人工の島を造った際の逸話として、 『新平家物語』 にも書かれている。
それによれば、清盛は人柱の代わりに経文を記した石を沈め、それで経ケ島と名付けられたとある。
清盛は治承五年 (1181) 高熱によって倒れ、六十四歳でこの世を去るが、遺骨が埋葬されたのが経が島であった。
但し経ケ島は今はなく、位置も、大きさも、目的もはっきりしたことはわかっていない。
清盛の遺骨は、平家一門が都落ちする際、持って逃げ、壇之浦に沈んでいるのではないかという説もある。
若き日の清盛が安芸の国でもう一つ、積極的に取り組んだものがある。
厳島神社の造営だ。
清盛は京の都で生まれたが、地方への視座という新しい考え方があった。これもまた清盛の秀れた先見性であろう。

『 「平家物語」 を歩く』 著・見延 典子 発行所・ 山と渓谷社 ヨ リ