〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/13 (火) 砲 火 C 

○仁川港外に脱出した千代田は、味方の艦影を求めつつ南下していると、やがて夜が明け、さらに南下するうち、八日午前八時三十分、水平線上におびただしい煙を見、近づくと瓜生戦隊であった。
艦長村上裕一はすぐ汽艇で旗艦浪速へ行き、瓜生司令官に会った。
瓜生が最も聞きたかったのは、
「まさか、ワリャーグとコレーツは仁川港外へ去っていまいな?」
ということであった。この二艦を旅順へ逃げさせることは敵の旅順艦隊の増強になってしまう。ぜひ撃ちとってしまいたいが、しかし仁川港は中立国の港であり、列強の軍艦も多く碇泊し、港内で戦闘を交える事はできない。国際問題を引き起こす恐れのある行動については神経質なほどの大本営は、
「仁川港内にあっては、ロシア艦から火蓋を切るならともかく、こちらから仕掛けてはならぬ」
と、瓜生に電報を打ってその行動を慎重にするように命じている。
ともかく戦隊は仁川に急行する事になった。千代田が先頭になった。
仁川港内の各国軍艦は、昨夜こっそり抜け出ていった千代田が、今度は日本艦隊の先頭を切って戻ってきたことに驚いた。
瓜生戦隊は、港内にイカリを降ろしたが、二隻のロシア軍艦もいる。敵味方が入り混じって、いつ港内戦が始まるかも知れず、列国軍艦もこの危険を黙って見過ごすわけにもゆかず、この八日夜九時、英国艦長が高千穂へやって来て、
「この港は中立国の港である以上、外国軍艦に危害を及ぼすような砲撃その他の行動を取って貰っては困る」
と言うと、艦長毛利一兵衛は、
「われわれは陸軍部隊を上陸させる命令だけを受けているが、戦争と言う命令は受けていない」
と、答弁した。
夜が更け、九日になった。陸軍部隊の揚陸作業は午前四時で終るという見通しがついたとき、瓜生は自ら英文をもってロシア軍艦ワリャーグの艦長ルードネフ大佐に対し挑戦状を書いた。
その挑戦状というのは、
「貴官もご存知の通り、すでに日露両国は交戦状態にある。ゆえに、予は貴官に対し、麾下の兵力を率いて九日正午までに仁川港外に退去されんことを要請する。もしこれに応ぜられぬ場合は、港内において貴国の軍艦に対し戦闘行為を取るの余儀なきことにいたるであろう」
軍使にこれを持たせて送る一方、各国軍艦に対しても、損害に及ばぬ碇泊場に移動される事を望む、と申し伝えさせた。これが、九日午前七時である。
午前十一時五十五分、ワリャーグとコレーツはイカリをあげ、移動し始め、やがて蒸気をいっぱいにあげて全速力をもって港外を目指しはじめた。
日本側はこのことあるを期して、浅間を港外に待ち伏せさせていた。

二等巡洋艦ワリャーグ (6500トン) は四本煙突の快速艦だが、ひきいている砲艦コレーツ (1213トン) が足が遅いため、脱出ともなれば軽快さを欠くであろう。日本の一等巡洋艦浅間 (9750トン) 以下が港外で待ちうけている。艦長は、勇猛で聞えた大佐八代六郎であった。
「敵艦が出てきました」
と、マストの上から叫んだ信号兵の声と共に全艦戦闘配置についたのだが、そばにいた三等巡洋艦千代田などはイカリをあげるゆとりがなく、鎖を断ち切ってしまったほどに、ロシア艦の出現は不意であった。時に正午前である。
日本のこの瓜生戦隊は、三千トン程度の旧式の二、三等巡洋艦を主力に編成されているもので、ぼろ軍艦ながらも全艦がよってたかれば、ワリャーグに対抗できる。浅間がこれに加えられたのは無傷でワリャーグを降伏させたかったからである。浅間は、速力を上げた。
ワリャーグとコレーツは港口のあたりの八尾島を目指して進んで来た。両艦とも戦闘旗を掲げた。待ち伏せた浅間も、戦闘旗を揚げ、さらに接近した。
双方の距離が七キロから六キロになったころ、浅間は八インチ砲を放って試射し、ついで左舷砲火を開いた。そのうちの後部八インチ砲弾が、ワリャーグの前艦橋に当たり、すさまじく爆発した。
すでにこの日旅順方面でも水雷戦がおこなわれたが、艦砲に限って言えば日露戦争における日本側の第一発は浅間の八インチ砲であろう。
浅間の射撃能力というのは、日本海軍の中でも最優秀と言っていい。続いて発射した前部八インチ砲弾も、敵のほぼ同じ場所に当った。このためワリャーグは前艦橋がめちゃめちゃになり、さらに煙突付近にも命中、つづいて艦の中央部および後艦橋にも散弾が命中し、大火災がおこった。
それでもワリャーグは屈しない。消化のために八尾島のうしろまで後退した。日本側はそこが港内であるため進めない。十五分ばかりすると、ふたたびワリャーグが姿を現し、激しく撃ってきた。
小さな千代田は海域を走りまわっている。この当時、軍艦の戦時色はネズミ色で、平時は黒であった。瓜生戦隊はみなネズミ色の塗料で塗られているが、千代田はながく仁川に取り残されていたため黒のままであった。燃料も、全艦隊に戦時用の英国炭が積まれているのに、千代田だけは平時用の日本炭で、この小艦だけがすさまじい黒煙を吐き散らしていた。
ワリャーグが左傾した。コレーツはなお無傷であった。
この両艦が生き残り得る道は、もう一度、中立港である仁川構内に引っ込んでしまう事であった。

港内深く逃げ込んだワリャーグとコレーツは、各国軍艦の間にもぐりこむようにして、浅間からの急迫を避けた。
浅間の方でも、国際問題を起こす事を恐れ、砲撃はやめ、港口にもどった。
ワリャーグの惨状は目も当てられない。艦は大きく左に傾き、大砲は殆ど破壊されてしまっている。普通、降伏以外には考えられないところであったが、艦長ルードネフ大佐は開戦早々にロシア帝国の軍艦が降伏するという不名誉を避けようとした。
彼は兵員の始末を各国軍艦に頼んだ。負傷兵を伊、仏、英の各艦に収容してもらい他の兵員については同盟国のよしみでフランス軍艦パスカルに収容してもらい、上海まで送ってもらうことにした。戦争が終るまで上海を出ないという条件ならば、国際法には触れない。
その始末が終ると、ワリャーグはキングストン・バルブを開いて自沈し、コレーツは火薬庫に火を点じ、艦長以下が退去し、爆沈させてしまった。
この海戦は規模は小さいながら、日本がヨーロッパ人との間で交わした最初の海戦であり、最初が上手く行っただけに日本側に大きな自信を与えた。

仁川には、日本領事館がある。領事は加藤本四郎という人物であったが、日本は相当の損害を受けるだろうと覚悟し、負傷兵治療のための臨時赤十字病院を領事館内につくっていたくらいであった。
戦勝後、参謀森山慶三郎少佐が上陸して領事館を訪ねた時、加藤領事は日本側の損害を聞いた。
「日本側には損害はありませんよ」
と森山が言ったが、加藤は信用せず、森山を自室に呼び、二人きりになって、
「露艦の大損害の様子から見ても、きっと怪我人が出たでしょう。ここは他に誰も居ませんから、言って下さい」
と、言った。森山は自分の言うことは本当です、ロープ一本切られてはおりません、というと、加藤はきょとんとしていたが、やがて泣き出した。日本人が白人に勝ったということを信じてよいのかどうか、加藤は外務省役人だけにその以外さと喜びが大きかったに違いない。
「驚くことはありませんよ。こちらはわざわざ浅間のような大きな艦をもってきたわけで、勝つべくして勝っただけです」
と、森山は言い、真之の物量集中作戦のおかげだと思った。
日本側の勝利は当然であるとしても、それにしてもロシア側の射撃能力があまりにも劣弱であったことに、日本側は驚いた。ワリャーグは全戦闘を通じて1530発という大量の砲弾を発射したが、一発も日本側に当らなかったのである。ロシア側の死傷者は、223人であった。日本側は一人の死傷もない。奇跡というより、ロシア側の射撃に拙さのためであった。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲A』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ