〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/09 (金) 砲 火 A 

○山下はランチで岸を離れ、やがて旗艦 「三笠」 の艦上にのぼったときは、午後七時である。
旗艦三笠は、一昨年、英国ヴィッカース造船所で出来上がった新造艦で、速力18ノット、排水量15362トン、おもな武装は30サンチ (12インチ) 砲四門、15サンチ砲十四門、8サンチ砲二十門、魚雷発射管四門という、世界で最も大きく、最も強力な戦艦とされていた。
山下源太郎が司令長官室に入ると、彼の到着がすでに報ぜられていたため、東郷平八郎がその幕僚達と共に待っていた。幕僚のうち、とびぬけて若いのが、少佐秋山真之であった。
(ああ、秋山がいるな)
と、山下は緊張の中で思ったが、おかしなものでこのとき真之の顎に無精髭がのびていることだけが目にうつり、
(あれは剃らせなきゃいかんな)
と思いつつ、東郷のそばに進み、二通の緘ざされた封書を差し出した。
副官永田泰二郎少佐が、ハサミを取り出し東郷に渡した。
東郷は一礼し、自ら封を切り、勅語を取り出し、黙読した。
次に開いたのは、海軍大臣山本権兵衛からの命令書である。
「連合艦隊司令長官並びに第三艦隊司令長官 (片岡七朗) は、東洋にある露国艦隊の全滅を図るべし」
「連合艦隊司令長官は、すみやかに発進し、先ず黄海方面にある露国艦隊を撃破すべし」
「第三艦隊司令長官は、すみやかに鎮海湾 (朝鮮南端) を占領し、まず朝鮮海峡を警戒すべし」
この封緘命令書の日時は、
「明治三十七年二月五日午後七時十五分」
と、書かれている。
秋山真之が懐中時計を取り出してのぞくと、ちょうど七時十五分であった。
そのあと、しばかく会議があり、やがて夜がふけた。
午前一時 (六日) 、三笠のマストが、ピカリと光った。すぐ、ピカピカと点滅しはじめた。
「各隊指揮官、艦長、旗艦に集まれ」
との発光信号が、碇泊中の全艦隊に発せられたのである。
にわかに港内の波が騒がしくなった。各艦から汽艇が降ろされ、それらが三笠に集中してきた。
開戦と出撃についての命令伝達の場所は、三笠の長官公室であった。集まって来た各隊指揮官と艦長は、四、五十人である。
東郷が、幕僚を連れて入ってきて、テーブルの中央に進み、やがて、
「大命がくだりました」
と、勅語を伝達し、山本海軍大臣からの命令を伝え、ついで連合艦隊命令第一号を下した。
「わが連動艦隊は、直ちにこれより黄海に進み、旅順口および仁川港にある敵の艦隊を撃滅せんとす」

連合艦隊参謀長は、海軍大佐島村速雄 (シモムラ ハヤオ) であった。島村は土佐人で、明治七年の海軍兵学寮入学である。 のち、元帥にすすみ、大正十二年没した。
非常な秀才でその智謀は底が知れないと言われたくせに、軍人には珍しいほどに功名主義的なところがなく、その生涯は常に人に功を譲ることで貫かれた。天性広やかな度量のあった人物といえる。
「東郷には、島村をつけておけばよかろう」
というのが、山本権兵衛の判断であった。この場合、東郷は統率をやる。島村の智謀が艦隊を動かす。ということであったが島村自身は、少佐秋山真之が参謀団に加わったので大いに喜び、
-----すべて君に一任する。
と、ひそかに真之に言い、終始そのとおりにした。
島村の考えでは作戦は天才がやるべきで、階級が上だからといって自分のようなものが小知恵を働かすべきではない、ということであった。
こういうあたりが、島村速雄の性格らしい。
日露戦争中、こんな挿話があった。
連合艦隊から大本営へ送られてくる報告文が常に名文である事に大本営担当の記者団が注目し始め、ついに読売新聞が、それが島村参謀長の筆であると信じて大いに褒め称える記事を掲げた。
島村はそれに驚き、わざわざ洋上から大本営の新聞掛の参謀小笠原長生中佐に手紙を書き、
「小生、一読呆然たると同時に冷汗背を流し申し候。ご承知のとおり小生の部下、別にその人ありてこれに当たりおり申し候」
と、真之がその人であることを言い、その記事の誤りであることを読売新聞まで通じておいてほしい、と頼んでいる。
島村は、そんな人物である。
日露戦争が終ってから、彼が連合艦隊参謀長であったために名声が大いに上がったが、しかしそれをいちいち否定した。ある公開の、それも記録として残る席上で、
「自分は日露戦争には、開戦から旅順陥落まで連合艦隊参謀長をつとめました。世上、日本海海戦までこの島村がやったように言われていますが、あの時は私は他に転じておってその職にはなかったのです。なににしましても、日露戦争の艦隊作戦はことごとく秋山真之がやったもので、旅順口外の奇襲作戦、仁川海戦、あるいは三次に渡る旅順閉塞、第二軍の大輸送、ついで日本海海戦に至るまでの作戦としの遂行はすべて秋山の頭から出、彼の筆によって立案されたもので、その立案せるものは殆ど常に即座に東郷大将の承認を得たものであります」
と、語っている。
ついでながら、島村参謀長の下に先任参謀として有馬良橘中佐がいた。この有馬が旅順閉塞後大本営付になって艦隊を去った後、東郷と島村は相談して後任を補充する事を止め、少佐の真之を異例ながら昇格させて先任参謀にした。
三十七歳の男が、日本の運命を決する海上作戦を一人で担ってゆくことになったのである。

真之の同期で、生涯の友人だった森山慶三郎 (のち海軍中将) は、当時少佐で、第二艦隊瓜生戦隊 (第四戦隊) の参謀をしており、巡洋艦 「浪速」 に乗っていた。
彼もまたこの夜、旗艦三笠の長官公室に集まった内の一人で、東郷平八郎から出撃の命令が伝えられた時の模様を次のように語っている。
「私はただうつむいて黙っていた。涙がこぼれて仕方がなかった。満座の人は一人として顔を上げるものはいない。誰一人声もあげず、なるで深山のようであった」
森山の述懐では、このとき脳裏を去来したのは、ロシアに負けるかも知れぬということであった。彼は二年前に公用で渡欧し、そのときポーランドを過ぎてその亡国の状を見た。戦傷者のロシア人が、どの町でもその町の主人のような態度でポーランド人を追い使っているのを見たが、その光景が思い出されてならず、日本もあのようになるのではないかと思うと、感情の整理がつかなくなり、涙が留めもなくなった。
「この室内には、私のような女々しい人間だけではなかったでしょうが、しかしこの場の無言の空気から察するに、どの人も似たような感慨でありましたろう。日本の存亡のがけっぷちに立っているという思いでありました。」
やがて命令の伝達が終ると、シャンペンが配られ、東郷が杯を上げ、
「一同の勇戦奮闘を望み、前途の成功を期して、杯を上げる」
と言い、干した。
一同干し終わると緊張から解放され、
「歓声湧くというような雰囲気に一変しました」
と、森山は言う。
艦長たちは長官公室から流れ出たが、参謀には命令を渡すからそれまで待っておれという声が聞えたから、森山は待とうとした。しかし人に押されるまま通路を歩くと、参謀室の前にさしかかった。
ドアが、開いている。
広い部屋に電燈が煌煌とかがやき、部屋の中央に大きなテーブルがあり、そのテーブルには海図が広げられ、二人の人物がしきりに協議している。
参謀長島村速雄大佐と少佐秋山真之であった。
森山は秋山真之というこの同期生を生涯神のように尊敬していたから、この情景をのちのちまで語り、それも、
「二人の希世の名将が心血を注いで作戦を練っているという感動的な光景であった」
と言い、さらに二人の動作を説明している。
真之は右手にコンパスを持ち、左手に定規を持ち、しきりにそれを動かして海津の上に艦の航路その他をひいている様子であり、テーブルの向こう側には、島村があの長大な体を半分海図の上に傾けて真之がひいてゆく航路をみつめていた。
やがて真之は、森山が戸口に立っているのに気づき、森山、と声をかけた。
「貴様のほうの戦隊は仁川へゆくことになった。浅間と水雷艇をつけてやる」
と言い、あとふたたび海図に目を伏せた。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲A』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ