〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/09 (金) 砲 火 @ 

○連合艦隊は、佐世保にいる。
それに対する出撃命令は東京の軍令部から出るわけであるが、この日発せられたのは電報ではなく、使者であった。
使者はこの二月四日の夜、汽車で東京を発ち、東海道を下った。使者として選ばれたのは、軍令部参謀山下源太郎大佐である。
出撃を命じるための使者が東京から夜汽車に乗り込むという悠長な事をしたのは、電報では機密保持が難しいということもあったであろう。しかしそういう防謀上のことよりも、一分一秒を急ぐ事情ではなかった事による。
この時期、ロシアの驚くべき感覚は、日本をあれだけ圧迫していながら、日本にはとうてい対露戦の能力はなく、日本からすすんで戦端を開くようなことはあるまいとみていたことである。
ロシアの計画では、日露戦争は一年ないし二年先であると見、理想的には二年の準備期間を持ったあげく、全力をあげて日本を叩き潰すということであった。
そのあたりは大国の感覚であった。
二月四日の午後六時、日本は御前会議において国交断絶を決定した。
翌五日、外務省は露都ペテルブルグにいる栗野公使に打電し、その公文をロシア政府に渡すことを命ずると共に、東京にあっては六日、外相小村寿太郎が、駐日公使ローゼンを外務省に招き、国交断絶を宣言したが、ローゼンは明らかに戸惑った表情をし、
「国交断絶とは何を意味するのか、戦争を意味するのか」
と、たずねた。国交断絶とは、具体的には平時は互いに交換している外交団を引き上げ、それぞれに在留している両国の国籍人も同時に引き上げてしまうということである。
むろん、断交した後、何事が起こっても両国の間に平時のルールによる外交交渉というものはあり得ない。その何事というなかには、無論戦争状態をも含み得るからであるから、このローゼン公使の質問は愚問と言うべきであった。と言うより、ローゼンすら、日本から断交や戦争を仕掛けるはずがないとたかをくくっていた。
小村は、学生に質問された法科大学の教授のような返答をした。
「断交は戦争ではない」
ローゼンの質問に対しては、そう答えるのが最も語意的に忠実である。無論小村はそこに外交的駆け引きを含めている。小村は断交後出きるだけ早期に先制攻撃を仕掛けようとしている日本陸海軍の作戦計画を知り抜いていた。

山下源太郎は、米沢の人で上杉家の旧藩士出身である。
旧藩校興譲館の後身である私立米沢中学校に学んだ時、英国人教師が、英国海軍の強大さを語り、
「それにひきかえ、日本には海の名将というものが古来一人もいない。その海軍はじつに貧弱である」
と言った事から海軍を志した、とひとつ話しに語った。
明治十二年、築地の海軍兵学校に入った。定員は、二十九人であった。
日清戦争の時は、彼は横須賀鎮守府の大尉参謀であったが、中央に対し重大な不満があった。
当初、海軍省の基本戦略として、清国の 「鎮遠」 「定艶」 を恐れるのあまり、いわゆる 「佐世保退守主義」 をとり、艦隊を佐世保港から出撃させない計画であった。
山下は 「攻撃せずに勝てるはずがない」 として艦隊司令長官伊東裕亨を説き、その承諾を得て東京へ行き、海軍大臣西郷従道とかけあって退守主義を捨てさせようとした。
退守主義をとったのは、佐賀藩海軍の出身の当時の軍令部長中牟田倉之助であったが、西郷は開戦前に中牟田をやめさせ、猪武者のきらいすらある薩摩出身の樺山資紀を後任に据える事によって、中牟田の消極戦略を捨てた。

それから十年経つ。
いま山下は、軍令部の大佐参謀として東京から佐世保の連合艦隊へ、開戦命令を伝えるべく使いしようとしている。かつて日清ノ役のまえ、北洋艦隊の鎮遠、定遠というたった二隻の戦艦を恐れるのあまり佐世保で退守しようとしていた頃に比べると、日本海軍の飛躍はどうであろう。
-----頭ヲメグラセバ、ワレナガラ信ジガタシ。
と、山下は述懐している。
あれからわずか十年しかたっていないことが、当事者の一人である山下でも信じ難い思いがするのである。
彼のカバンの中には、海軍の用語で言う、
「封緘命令」
が、入っている。
連合艦隊司令長官東郷平八郎に対する命令書であり、言葉の本来の意味から言えば、指定の時期に指定の場所で封を切るべきものであった。今度の場合、緘ざされた封は二通で、一つは命令書であり、一つは勅語が入っていた。
勅語の内容は、露国政府と断交するに至った止むを得ざる事情を述べた後、 「朕が政府に命じて露国と交渉を断ちわが独立自衛のために自由の行動を取らしむることに決定せり。朕は卿等の忠誠武勇に信頼し、その目的を達し、以って帝国の光栄を全くせむことを期す」 というものであった。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲A』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ