〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/15 (月) 広瀬 武夫
          誰からも愛された海の漢 旅順港閉塞作戦に散る。

瓜生艦隊の仁川海戦は完璧な勝利だった。
ロシア海軍二等巡洋艦 「ワリヤーグ」 と砲艦 「コレーツ」 を自沈自爆させ、死傷者223人に対して日本側は一人の怪我人も出さないという奇跡的な勝利である。
その頃、東郷が率いる連合艦隊本隊は旅順港要塞の洗礼を受けていた。連合艦隊はロシア太平洋艦隊と決戦して一気に決着をつけようとしていた。そのために前夜、全駆逐艦による奇襲作戦を敢行させたが、思うような結果は出せなかった。
そして、ロシア太平洋艦隊は旅順湊から出てきて積極的な戦闘行動を起こそうとはしない。東郷艦隊は要塞砲のために深入りできないのだ。この 「旅順港外の海戦」 は日本側にとっては失敗を認めざるを得ない結果となった。
ロシア側はもうワンセットの艦隊を保有している。いまはヨーロッパにあるが、日露戦争の進行と共に、大挙してこの極東に進路を向けるだろう。早期の内にこの太平洋艦隊を殲滅しなければ、来るべきヨーロッパ (バルッチク) 艦隊との戦いで五分の戦いは出来ないのだ。
さらに、この太平洋艦隊の存在が陸軍の輸送システムを脅かす。この点を敵も承知していて要塞砲に守られた旅順港から出てこないのだ。
それならばと立案されたのが 「旅順港閉塞作戦」 である。古い貨物船などを狭い港の入り口に沈めて、敵艦を封じ込めてしまおうというものだ。
しかし、敵艦と要塞砲の射程距離内でのこの作戦は危険と困難を伴うことから東郷は賛成しなかった。それを強行に推し進めたのが参謀の有馬良橘 (リョウサツ) 中佐であり、それに賛同したのが広瀬武夫だった。
広瀬武夫は戦艦 「朝日」 に水雷長で、この時海軍少佐であった。この 「旅順港閉塞作戦」 は三回決行されたが全て失敗に終る。広瀬も二回目の作戦で戦死して 「軍神」 となり、国民的英雄として祀られていくのである。

広瀬武夫はヒーローになるべくして生まれてきた男かも知れない。
広瀬は豊後岡藩の次男として生まれる。武夫が十歳の頃、裁判官だった父の赴任に伴い飛騨高山に移り住む。十八歳で海軍兵学校に入学。因みに、兄・勝比呂も海軍軍人である。
海軍兵学校時代の広瀬の成績は六十四番 (卒業時) だったというが、そのリーダーシップは当時から突出していたようで、いわゆる体育会系の好漢だったようだ。
校内マラソン大会では前日から骨膜炎に侵された左足の激痛と高熱にもかかわらず根性だけでトップ完走。ゴールと同時に気絶、危うく左足を切断しかねない状況に陥ったという、なんとも無鉄砲な快男児である。
己の損得など意に介さない気質だったようで、友人が山本権兵衛の娘との縁談に悩んでいると、単身山本を訪ね直言するなど、とにかく面倒見がよく、部下からも慕われた。
広瀬に出会った人間は皆その爽やかな気質に魅せられたという。同姓だけでなく、老人から子供まで。もちろん、異性にもモテたようだが豪胆な気質の彼は生涯女性を知らずに世を去ったとも聞く。
そのロマンスは駐在武官時代のロシアが舞台である。彼の魅力は国内外を問わなかったようで、ここでも社交界を魅了した。そして、当時のロシア社交界の華と謳われた伯爵令嬢アリアズナの心を奪ってしまう。
日露戦争が回避できていたとすれば、もしくは広瀬が戦死しなかったら二人は結ばれていたことだろう。東洋人を蔑む当時の列強ロシアにあってアリアズナの父コヴァレスキー伯爵 (海軍少将) とは家族ぐるみの付き合いだったという。両国の緊張関係と悪化から広瀬は帰国命令によってペテルブルグをあとにする。
こうして広瀬は日本の海軍軍人としてアリアズナの祖国と戦うことになる。

広瀬と秋山真之は海軍兵学校からの親友である。同じ下宿で同居していた時期もあった。
その後、秋山は連合艦隊司令室で参謀として作戦立案の中心的存在となるが、机上の立案と実戦とのギャップに戸惑っていたようだ。
広瀬は旅順港閉塞作戦の決死隊の陣頭指揮をとっていたが、そんな真之に 「この作戦では弱気は禁物」 と一喝する。
「実戦部隊は生還を期しては何も出来ない。成功のカギはただ一つ、どんどん行くというよりほかはない」 と。
広瀬はこの言葉通りどんどん行った。
第二回旅順港閉塞作戦で沈没しようとする貨物船から部下たちと脱出しようとした時、部下の杉野の姿が見えないのに気づいた広瀬は船内を探す。しかし何度探しても杉野の姿は見つからない。船上には浸水してきた海水が満ち溢れ、周囲は炸裂する砲弾で水しぶきを上げる。
びしょ濡れの広瀬は遂にあきらめ、部下と共にボートに乗り込む。周りの海面は飛び散る砲弾で熱く煮えたぎっている。
敵の探照燈に照らされボートを漕ぐ部下を落ち着かせようと、
「みんな俺をよく見て漕ぐんだ」
と広瀬は激励する。
その時、広瀬がこの地上から突然姿を消した。ボートの隊員達は一瞬何が起きたのか分らなかったという。
広瀬武夫は戦死と記録された前日付で中佐に昇進する。そして、 「軍神」 と宣伝された。
しかし、戦後育ちの私たちに広瀬武夫の名はすでに遠い記憶となっている。
彼を軍神としたのは、同じ頃、陸軍で生まれた 「軍神」 に海軍が対抗してのものであり、国民の戦意高揚にその目的があったともいわれる。東京のどこかに広瀬の銅像もあったようだが、太平洋戦争終結後、GHQによって取り除かれた。
自分の死後 「軍神」 に祀られることを知ったならば広瀬は大層戸惑ったのではないだろうか。また、そのような演出をしなくとも彼の存在は十分に海軍の英雄として語り継がれたはずだ。 爽快で青い海が似合う底抜けの快男児として。
私たちの想いは尽きない。戦争が終わりペテルブルグのアリアズナのもとに向かう広瀬の姿をどうしても想像してしまう。
広瀬戦死の知らせを聞いたアリアズナは喪装して喪に服したという。
「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ