〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/16 (火) 日高 壮之丞
山本権兵衛は日露戦争を想定して連合艦隊司令長官に東郷平八郎を大抜擢した。しかし、難問が残っている。
当時の常備歓待長官は海軍中将・日高之丞だった。日高も鹿児島加治屋町出身である。開戦となれば当然、日高がその職に就くものと誰もが見ていた。その思いは日高自身が誰よりも強かったことだろう。
難問とはその説得である。
東郷就任の知らせを聞くと日高は烈火の如く猛り狂って、山本の大臣室に乗り込んできた。俗に 「押っ取り刀で現れた」 という言葉があるが、日高はまさに腰のサーベルを引き抜かんばかりの剣幕である。
なぜ! 俺でなく東郷なのだ。
あの、東郷よりも俺は能力が劣るというのか。
これが日高の主旨である。

山本権兵衛と日高は盟友、いや兄弟以上の関係である。戊辰戦争からの戦友であり、その後権兵衛が相撲取りになろうとしたときには日高を誘ってもいる。海軍兵学寮で暴れ回っていた時も常にその傍らに日高がいた。
日露開戦を目前にして、艦隊最高責任者である自分が更迭される不名誉をその山本から突きつけられたのである。日高にとっては信じられない出来事だったに違いない。
興奮する日高に権兵衛は
「能力という点からいえばおまえの方が上だろう。しかし、今度の戦いは国運を賭けての必勝でなければならない。しかし、お前は時に参謀本部に計らずに己の判断で行動することもあるだろう。東郷にはそれがない」
と静かに諭した。
号泣syる日高ではあったが、最後はその説得を受けて舞鶴鎮守司令長官に就く。
しかし、山本は東郷を参謀本部に忠実で功に奔らない軍人として評価したわけではない。バルッチク艦隊との決戦直前に秋山真之たちがその行路を対馬か太平洋かで迷いに迷っている時に、軍令部は対馬待機を発しようとした。それに断固反対したのが山本である。
「現場のことはすべて東郷に任せてある。後方が現場に関与してはならない」
というものだ。

薩摩弁で 「議を言うな」 という言葉がある。 「議」 とは議論であり、口答え、不平、文句を意味する。こtrは主に目上の者が部下や後輩、子弟に使う言葉である。逆にいえば薩摩人とは 「議」 をよく言う民族でもあるということではないだろうか。
日本では薩摩兵は一番強いといわれた。その要因には地理的なことも含めた 「貧しさ」 もあるだろうが、薩摩という国が、国家戦略として一貫した軍事教育を施していたことも大きいだろう。その一つが命令系統の混乱を防ぐ 「議」 への批判教育だったといえる。
この南国では存外にユーモアを好み、それでいて勇猛な人間を育むようだ。そこには従順な中に時として上司でも平気で刃向う獰猛な性質も隠れているのだろう。
日高は己の才を恃むところが多く、自ずとそこには限界が生じてしまう。 「議」 には不平の意味合いが色濃く含まれている。この日露海戦にあっては 「単なる勝利ではなく敵の殲滅」 という苛酷な使命を伴っていた。その使命に 「議」 を持ち込むことを山本は恐れた。また、その使命の苛酷さの重圧から逃れる智慧にも恐怖を感じただろう。
東郷にはそれがない。与えられた使命を理解して達成することを本分とする軍人である。
若い頃の東郷は 「ケスイボ」 で、その機知からよく 「議」 を挟んだことだろう。大久保利通の逆鱗に触れたのもそれが原因ではないかと想像するのだが、ともかく東郷は変わった。
しかし、 「絵に描いたようなボッケモン」 といわれた日高は若い頃から何も変わっていないと山本は観ていたのだ。そして、東郷がなぜ変容したのか山本は知っていた。
山本も日高も薩摩人の典型的豪傑の称号である 「ボッケモン」 の渾名をもっている。
日高の場合はさらにそこに 「絵に描いたような」 という形容詞が付いている。そこが日高壮之丞に日本の運命を託せなかった大きな理由ではないだろうか。
「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ