〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/20 (土) 林 董

臥薪嘗胆という言葉がある。これは中国戦国末期に越に敗れ、国家存亡の危機に瀕した呉王・不差がその無念を日々忘れないために、薪の上で寝て苦い肝を嘗めたという故事からのものだ。
明治政府が樹立されて二十七年後、日清戦争に勝利した日本はドイツ、フランス、ロシアによる三国干渉を受ける。この西洋列国の干渉によって日本は清国から得た 「遼東半島」 を泣く泣く手放すのだが、これより日露戦争までの約十年間を日本と日本国民はこの 「臥薪嘗胆」 で大国ロシア打倒を悲願とするのであった。
日本がこの仮想敵国の戦って勝つには富国強兵しかありえない。産業らしい産業も芽生えていない極東の後進国にとっては無理のある話ではあった。
ところが、明治三十三年の北清事変によって満州に兵力を投入したロシアは事変後も軍を満州に居座らせ、極東への野心を歴然とさせた。日本にとってはもはや 「臥薪嘗胆」 どころではなく、切迫した国家存亡の危機となった。
ロシアが狙うのは満州から朝鮮半島、そして日本であることは誰の目にも明らかであった。
このとき、日露戦争まであと三年半。日本の政治家が、外交官が、軍人達が、なんとか日本を救う手立を考え、奔走していた。
明治三十五年に締結された日英同盟。その時の駐英公使が林菫である。
元々この同盟案はドイツの道楽外交官の無責任なアイディアから生まれた。ドイツは当時、フランスと不倶載天の関係にあり、フランスが頼みとするロシアを牽制する意味と、青島にあるドイツの権益を守るということから企画された。ロシアの南下政策の食指が極東のみならずインドに向かっていると英国を誘ったわけだ。そこで利害と位置的関係から日本を入れて 「英独日同盟」 が提案された。
英国は 「名誉ある孤立」 を自他共に認める世界随一の強大国家である。対して日本は誰も相手になどしない小国なのだが、極東まで手が回らない英国がこれに乗った。
もとより、日本の首脳陣の間でも親露路線以上に日英同盟を望む声はあった。しかし、それは行儀見習の田舎のおぼこ娘が玉の輿を願うそれと変わりがない。それが当時の現実である。
林はこの話に飛びついた。彼自身、日英同盟にしか日本の活路は見出せないと考えていたからだ。日本の桂以下首脳陣もそれが可能であるのならば無論異義はない。
交渉のテーブルに着いたとき、はやくもドイツはその姿を消していたが日英同盟は明治三十四年十月十六日に交渉が始まり、翌年の一月三十日に締結されるに至った。
ドイツの外交官エッカルトシュタインの企画は本国政府の確認もとらない思いつきだったが、これが最初から 「日英同盟」 として提案されたとしたら、はたして英国側に受け入れられただろうか、大いに疑問だ。その意味で日本と林は幸運であっただろう。
林は日英同盟の調印後、これで日本はたとえロシアと戦争になった場合でも、 「勝つまでには至らなくとも負けることはないだろう」 と肩の荷を下ろしたことだろう。

林菫は幕臣として千葉佐倉で蘭方医の子として生まれる。その後、幕府御殿医・林洞海の養子となり、ヘボン塾で英語を学ぶ。同窓には後に日銀副総裁として日露戦争費調達に活躍する高橋是清などがいる。
慶應二年に英国留学。帰国すると幕府は瓦解していた。既に大勢は決していたが榎本武揚は朝敵の汚名を着ても徳川幕府への節を貫く決心を固めていた。榎本は菫の姉 (養父・洞海の妻) の生んだ娘を嫁にしており、義兄弟にあたる。董三郎と名乗った十九歳の林は、榎本と行動を共にすることを懇願した。榎本はまだ若い義弟の命を散らすことに躊躇して、実父の承諾を条件とした。
林は佐藤泰然四十六歳、母たき四十一の末子で、董は特別可愛がられた。
実父・泰然はこの頃すでに浪人の身で、幕府のこれまでの腐敗ぶりと朝廷が薩長を認めた以上、もはや仕方のないことだと述べるのだが、 「しかし、人には節操というものがある」 と一転我が子を激励するのだった。
こうして林は榎本と共に各地で転戦、箱根戦争を戦うが敗れて津軽藩での抑留生活を送る。
林董を明治新国家での舞台表に登場させる要因の第一は彼の英語力にある。
榎本武揚の命により英国公使パークスへ宛てた書簡の見事さに 「旧幕府内に英国人がいるのか?」 の逸話がそれを証明している。
抑留時代にその英語力が官軍参謀黒田清隆の目にとまり、新政府に引き抜かれるのだが、 「みんなと一緒でなく、自分だけならお断りする」 と拒絶する。
この胆力と清廉な気骨が薩摩人の信用を大きく買い、旧幕臣でありながら後々まで薩摩閥のバックアップを受けることになる。
人間同士のネゴシエーションの場と公益を左右する国家のそれとはその性質と環境が大きく異なるものである。その交渉に携わる外交官は人智を超える策士であらねばならない。
策士とは自らがその策を弄するのではなく、起こってくる現実の事象に即して、その策を計るものだといわれる。
林にも日英同盟を締結させるにあたって、二つの対外的事象が現れている。
同盟交渉中に恐露論者・伊藤博文がロシアを訪問したことである。ひとつ間違えれば締結寸前のこの玉の輿の縁談が解消される事態にもなりかねない。しかし、林は冷静だった。逆にそれを交渉の最大のブラフとしている点は林の智力と胆力を十分に証明するものである。
日英同盟の締結はロシアに対して緊張感をもたらした。同時に日本は三国干渉のようにフランスやドイツに与したロシアと戦うという最悪のシナリオも回避できたことになる。
また、日英同盟締結の半年後に結ばれた日英軍事協定により、日本は英国からの情報提供と制海権確保を手中にした。
日英同盟をバックにして日本の外交努力はさらに続けられる。しかし、力の裏付けのない外交戦が成功した例はないのだ。
日英同盟は成立したが、これで即、開戦というわけにはいかない。最善の方策はロシアとの戦争回避である。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ