〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/04/15 (火) 帚 木 (二十九)

またの日、小君召したれば、参るとて御返り乞ふ。
「かかる御文見るベき人もなしと聞こえよ」 とのたまへば、うち笑みて、
「違ふべくものたまはざりしものを、いかがさは申さむ」 と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。
「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」 とむつかれて、 「召すには、いかでか」 とて参りぬ。
紀伊の守、すき心に、この継母のありさまを、あたらしきものに思ひて、追従 (ツイソウ) しありければ、この子をもってかしづきて、率 (イ) てありく。
君、召し寄せて、
「昨日待ち暮らししを、なほあひ思ふまじきなめり」 と怨 (エン) じたまへば、顔うち赤めてゐたり。
「いづら」 とのたまふに、しかしかと申すに、 「いふかひのないことや。あさまし」 とて、またも賜へり。
「あこは知らじな。その伊予の翁よりは、先に見し人ぞ。されど、たのもしげなく、頸 (クビ) 細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かくあなづりたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。このたのもし人は、ゆくさき短かりなむ」
とのたまへば、さもやありけむ、いみじかりけることかな。と思へる、をかしとおぼす。
この子をまつはしたまひて、内裏にも率 (イ) て参りなどしたまふ。
わが御匣殿 (ミクシゲドノ) にのたまひて、装束などもせさせ、まことに親めきてあつかひたまふ。
御文はつねにあり。されど、この子もいと幼し、心よりほかに散りもせば、軽々しき名さへとりそへむ、身のおぼえをいとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答 (イラヘ) へも聞こえず。
ほのかなりし御けはひありさまは、げになべてぬやはと、思ひいできこえぬにはあらねど、をかしきさまを見えたてまつりても、何にかはなるべき、など思ひかえすなりけり。
君はおぼしおきたる時の間もなく、心苦しくも恋しくもおぼしいづ。
思へりしけしきなどのいとほしさも、はるけむかたなくおぼしわたる。軽々しくはひまぎれ、立ち寄りたまはむも、人目のしげからむ所に、便 (ビン) なきふるまひやあらはれむと、人のためもいとほしくと、おぼしわづらふ。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

明くる日、小君は源氏の君に呼ばれましたので、今からお邸へ参上するからといって、姉君にお返事の催促をします。女は、
「こんなお手紙を見る人はおりませんと申し上げなさい」
と言いますと、小君はにっこりして、
「だって人違いなどなさるわけはないでしょうに、はっきりおっしゃったのに、そんなお返事は申し上げられませんよ」
と言いますので、それではこの子に、すっかりあのことを話しておしまいになったのかと思うと、何とも情けない気がして辛く、身の置き所もありません。
「何ですか。そんなませた生意気な口をきくものではありません。そんなふうなら、もう、あちらに参上するのはお止めなさい」
と、ひどく機嫌を損ねられて、小君は、
「だってお呼びがあったのですもの、どうして行かないなんてできるものですか」
と言って、源氏の君のとことに参上しました。
紀伊の守は好色な男なので、この継母の暮らしぶりをもったいないと思って、常々、何かと機嫌をとっていましたので、この小君も大事にして、どこへでも連れて歩いていました。
源氏の君は子君をお呼び寄せになられて、
「昨日は一日待ち暮らしたのに、そちらはわたしほどにはわたしのことを思ってくれないのだね」
とお怨みになりますと、小君は顔を赤くしています。
「どうだった、お返事は」
とおっしゃるので、姉に言われたとおり申しあげると、
「何だ、頼み甲斐もない、ひどい話だ」
とおっしゃって、また次の手紙をお渡しになりました。
「お前は知らないだろうね。実は伊予の老人よりも先に、わたしと姉君は仲よくしていたのだよ。それなのに、わたしが頼りない若造だと見くびって、姉君はあんなみっともない老人を頼りにして、こんなふうにわたしを馬鹿になさるのだ。だけどお前だけはわたしの子のつもりでいておくれ、あの老人も、この先そう長いことはないだろうからね」
とおっしゃいますと、そういうこともあったのかもしれない、ほんとに困ったことだったんだなあと、小君が本気に思っている様子を、源氏の君はおかしくお思いになります。
それからいつもこの子をお側にひきつけ、吾子 (アコ) と呼ばれて可愛がり、宮中へもつれて参上されるのでした。御自分のお邸の御匣殿 (ミクシゲドノ) にお命じになって、小君の衣裳なども新調させ、実の親のようにお世話なさいます。
女へのお手紙も終始お持たせになります。けれども女は、この子もまだ幼稚なところがあるので、ひょっとして落としたりして、うっかり手紙が人目に触れでもしたら、悲しい身の上に加えて軽々しい浮き名まで流すことになるだろう。自分の境涯が源氏の君に対してあまりにも分不相応だと思うため、どんな結構なお話でも、こちらの身分につけてこそと考え、うち解けたお返事などはさしあげません。
ほのかに拝したあの夜の源氏の君の面影や御様子は、ほんとうに噂にたがわず、たぐい希なすばらしさだったと、おなつかしくお偲びしないわけではありませんけれど、今更恋心の綾も理解する女のように振舞ってみたところで何になるだろうか、などと思い返すのでした。
源氏の君は片時も女をお忘れになることはなく、悩ましくも恋しくも思いつづけていらっしゃいます。あの夜思い悩んでいた女の風情や、いじらしい面影も頭から離れたことがなく、常にお心にかけつづけていらっしゃいます。
人の出入りにまぎれて、軽々しくこっそりと忍んでいらっしゃっても、人目の多い所だから、不謹慎な挙動を見つけられでもしようものなら、あの人のためにも気の毒なことになろうと、思案に暮れては思い煩っていらっしゃるのでした。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ