〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/04/07 (月) 帚 木 (二十)

「さていと久しくまからざりしに、もののたよりに立ち寄りはべれば、常のうちとけゐたるかたにははべらで、心やましき物越 (モノゴシ) にてなむあひてはべる。
ふすぶるにやと、をこがましくも、またよきふしなりとも思ひたまふるに、このさかし人はた、軽々 (カロガロ) しきもの怨 (エン) じすべきにもあらず、 世の道理を思ひとりてうらみざりけり。
声もはやりかにて言ふやう、
『月 (ツキ) ごろ風病 (フウビヤウ) 重きに堪へかねて、極熱 (ゴクネチ) の草薬 (ソウヤク) を服して、いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。まのあたりならずとも、さるべからむ雑事等 (ザフジラ) はうけたまはらむ』
と、いとあはれにむべむべしく言ひはべり。
(イラ) へに何とかは。ただ 『うけたまはりぬ』 とて、立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえけむ、 『この香失せなむ時に立ち寄りたまへ』 と、高やに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきにはた、がべらねば、げにそのにほいさへ、はなやかにたち添へるも術なくて、逃げ目をつかひて、
『ささがにに ふるまひしるき 夕ぐれに ひるま過ぐせと いうがあやなさ いかなることづけぞや』
と、言ひも果てず走り出ではべるに、追ひて、
『逢ふことの 夜をし隔てぬ 仲ならば ひる間もなにか まばゆからまし』
さすがに口疾 (クチト) くなどはべりき」
と、しづしづ申せば、 君達あさましと思ひて、虚言 (ソラゴト) とて笑ひたまふ。
「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向ひゐたらめ。むくつけきこと」
と、爪弾きをして、いはむかたなしと、式部をあはめ憎みて、
「すこしよろしからむことを申せ」 と、責めたまへど、 「これよりめづらしきことはさぶらひなむや」 とて、をり。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

「さて、長い間、訪ねもせずにおりまして、ふとしたついでに立ち寄ってみましたら、いつものくつろげる部屋には入れてくれず、おもしろくもなく几帳越しになどものを言います。
焼いてすねているのかなと、馬鹿々々しくもあり、もしそうなら別れるのにいい潮時だとも思いましたが、どうしてどうして、この賢女殿、そんなに軽率に嫉妬 (ヤキモチ) など焼くような女ではありません。 男女の仲をお見通しで、少々ご無沙汰した位で、恨みなどはいいません。のみならず、声も張り上げてせわしない口調で、
『幾月も前から重い風邪にかかっております。あまり高熱で苦しいので、にんにくを服用しています。ひどく悪臭を放ちますので、お逢いできません。直接顔を合わさずとも、しかるべき御用の節は、ここで承りましょう』
と、いかにも殊勝らしく理路整然というのです。
これにいったい、どんな返事が出来ましょうか。
『了解しました』
とだけいって立ち去ろうとしますと、さすがび淋しかったのか、
『この悪臭が消えた頃、お越し下さいませ』
と大声をはり上げます。
そのまま聞き捨てにするのも可哀そうだし、かといって少しの間もぐずぐずできる場合でもありません。何しろ、その間もにんにくの悪臭がぷんぷん鼻をついてくるのがやりきれなくて、逃げ腰になり、

ささがにに ふるまひしるき 夕ぐれに ひるま過ぐせと いうがあやなさ
(恋人の訪れのしるしという 蜘蛛の巣の張る夕暮れなのに 訪ねも来ずひとりで昼間を過ごせとは 何とつれないことを)
『いったいこれはどういうわけですか』
といいも終わらず、走り出てしまいましたら、背後から、
逢ふことの 夜をし隔てぬ 仲ならば ひる間もなにか まばゆからまし
(逢うために 夜離 (ヨガ) れもしないしっくりした仲なら 昼間逢っても 何恥ずかしかろう)
間髪いれず返歌をよこそましたのは、さすがでございました」
と、もったいぶって言いますので、ほかの三人は呆れかえって、嘘にきまっているとお笑いになります。
「どこにしおんな女がいるものか、そんな女といるくらいなら、いっそ鬼とでも差し向いでいた方がましさ。ああ、気味が悪い」
と、爪弾きして、式部の丞を、
「もう少し、ましな話をしたらどうだ」
と、責められるのですが、
「はて、これ以上の珍談がございましょうか」
と、すましています。
新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ