〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2008/04/04 (金) 帚 木 (十六)

もとよりさる心をかはせるにやありけむ、この男いたくすずろきて、門 (カド) 近き廊の簀子 (スノコ) だちものに尻かけて、とばかり月を見る。
菊いとおもしろくうつろひわたり、風にきほへる紅葉の乱れなど、あはれと、げに見えたり。
ふところなりける笛取り出でて吹きならし、かげもよし、などつづしりうたふほどに、よく鳴る和琴 (ワゴン) を調べととのへたりける、うるはしく掻きあはせたりしほど、けしうはあらずかし。
律の調べは、女のものやはらかに掻き鳴らして、簾 (ス) のうちより聞こえたるも、今めきたるものの声なれば、清く澄ねる月にをりつきなからず。
男いたくめでて、簾のもとに歩み来て、 『庭の紅葉こそ、踏み分けたるあともなれ』 などねたます。
菊を折りて、
『琴の音も 月もえならぬ 宿ながら つれなき人を ひきやとめける わろかめり』 など言ひて、
『今ひと声聞きはやすべき人のある時、手な残 (ノコ) いたまひそ』 など、いたくあざれかかれば、女、いたう声つくろひて、
『木枯に 吹きあはすめる 笛の音を ひきとどむべき 言の葉ぞなき』
となまめきかはすに、憎くなるをも知らで、また筝の琴を盤渉調に調べて、今めかしく掻き弾きたる爪音、かどなきにはあらねど、まばゆきここちなむしはべりし。
ただ時々うちかたらふ宮仕へ人などの、あくまでさればみすきたるは、さても見る限りはをかしくもありぬべし。
時々にても、さる所にて忘れぬよすがと思うたまへむには、たのもしげなく過ぐいたりと心おかれて、その夜のことにことづけてこそまかり絶えにしか。
この二つのことを思うたまへあはするに、若き時の心にだに、なほさやうにもていでたることは、いとあやしく、たのもしげなくおぼへはべりき。
御心のままに、折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見ゆる玉笹 (タマザサ) の上の霰 (アラレ) などの、艶にあえかなるすきずきしさのみこそ、をかしくおぼさらめ、今、さりとも七年 (ナナトセ) あまりがほどに、おぼし知りはべなむ。
なにがしがいやしきいさめにて、すきたわめらむ女に心おかせたまへ。
あやまちて、見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」
といましむ。
中将、例のうなづく。君、すこしかた笑みて、さることとはおぼすべかめり。
「いづかたにつけても、人わろく、はしたなかりける身物語かな」
とて、うち笑ひおはさうず。

(口語訳・瀬戸内 寂聴)

前から情を交し合っていたと見えて、男はひどくそわしわしげながら、中門に近い廊の縁側のような所に腰をおろし、しばらく月を見ています。
前庭の菊が霜にあい、色が変わりはじめたのもおもむきがあります。風に先を争って紅葉が散り乱れる様なども、なかなか情趣のある眺めです。
男は懐から横笛を取り出して吹きはじめました。<飛鳥井 (アスカイ) に宿りはすべし や おけ 蔭もよし・・・・> など、思わせぶりに笛の音の合間、合間に歌ううちに、女は音色の美しい和琴の調子を、用意周到に整えてあったとみえ、歌に合わせて見事に合奏したところなどは、なかなかのものでした。
<飛鳥井> のような律の調べは、女の手でものやわらかく掻き鳴らすのが御簾 (ミス) の奥からも聞こえてきますと、和琴は現代風なはなやかな音色ですから、清く澄んだ月影に折から実によく調和いたします。
男はすっかり感激して、御簾の近くに歩み寄って、
『この庭の紅葉だけはまだ誰も踏み分けた跡はありませんね。あなたの恋人は冷淡なようですね』
などと皮肉をいっています。菊を手折って、
『琴の音も 月もえならぬ 宿ながら つれなき人を ひきやとめける (琴の音も月の光も 美しく清らかな宿だというのに つれない人を あなたは引きとめられなかった) いやどうも失礼しました』
などと言って、
『今一曲お願いします。こんな聞き手のある時は、手を惜しまずお弾きになるものですよ』
などと、いやに馴れ馴れしく戯れかかると、女は気取った作り声を出して、
『木枯に 吹きあはすめる 笛の音を ひきとどむべき 言の葉ぞなき (木枯らしに合奏するあなたの激しい笛の音色 その音にも似たひどいことをおっしゃるあなたを引きとめる言葉なぞ持っているものですか)
と、いちゃつきあいまして、わたしがむしゃくしゃしているのも知らずに、今度は筝の琴を盤渉調 (バンシキチョウ) の調子にして、当世風に掻き鳴らす爪音は、うまくないとはいえませんが、こちらは気恥ずかしくて、やりきれない気持ちがしました。
ただ時たま親密につきあうだけの女房などが、限りなくあだっぽくて浮気なのは、浅い仲の相手としてはおもしろいことでしょう。
しかし通い所のひとつと決めて生涯の伴侶とするには、そういう女は色っぽすぎて、危なっかしく厭気がさします。出過ぎてもいるようなので、その夜のことにかこつけて、その女とは別れてしまったのです。
この二つのことを考え合わせてみますと、若い頃のわたしの頭でも、そういう色っぽい女の振舞いは、どうも怪しく、信頼できないように思いました。若くもないこれからは、ましてますます、そう感じることでしょう。
あなた方も、お心にまかせて、手折ればこぼれそうな萩の露のように、男の誘いを待ち望んでいる女とか、手に掬おうとするとすぐ消え失せてしまいそうな風情の、玉笹の霰にも似た、いかにもはかなそうな、色っぽい女ばかりを面白くお思いになるでしょうが、まあ七年、八年もしましたら、そのうちおわかりになりますでしょう。
数ならぬわたしの忠告をお聞き下さって、色っぽく男に靡きあやす女には、せいぜい御用心遊ばせ。そういう女はきっと不貞な過ちをしでかし、夫のためにもみっともない評判をたてられるに違いないのです」
と戒めます。
頭の中将は、例によってうなづいています。源氏の君もすこしほほ笑みながら、そういうことはありそうだなとお思いのようです。
「どちらにしても、みっともなく、外聞の悪い身の上話だね」
と笑っていらっしゃいます・。

新調日本古典集成 『源氏物語 (一) 』 校注者・石田 穣二 清水 好子 発行所・ 新潮社
『源氏物語 巻一』 著者 ・瀬戸内 寂聴 発行所・ 講談社 ヨ リ