〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/22 (月) 抜 錨 A

○この電文いついて、いま少し続ける。この電文において、
「之ヲ殲滅セントス」
という表現を用いている。このことはこの時代を知るために重要な問題が含まれている。
この時代の軍人の軍隊文章というのは、陸海軍を問わず、現実認識という軍人にとって最も重要な要素から決して浮き立つことをしなかった。要するに、こういう極端なあるいは誇大な用語はこれ以前に使われたことがなかった。
ついでながらこの種の誇張表現が軍隊のなかで日常的に使われ始めたのは、軍人が官僚化し、あるいは国士気どりになって、現実認識の精神を忘れてしまった (としか言いようのない) 昭和期に入ってからである。
昭和期特に日中事変前後から軍人のこの種 (現実認識と無関係な誇張の文章を書くという) の傾向は、昭和軍隊のもっとも深部のなかにおける頽廃に根ざしていることと考えていい。
昭和期の陸軍では、中隊長あたりの小さな団隊長の報告文でさえこの種の誇張表現がちりばめられていた。
しかし、日露戦争の東郷の司令部があえて使ったこの 「殲滅」 という言葉には、いわば法理的とさえいえる背景と戦略的妥当性と十分な現実認識があった。

昨年十二月旅順艦隊を覆滅した後、東郷は報告の為に帰京した。このとき参内し、明治帝に拝謁した時、帝が、
「露国の増遣艦隊 (バルッチク艦隊) がくるというが、見込みはどうか」
と、問われた。
ついでながら東郷には海軍大臣山本権兵衛と軍司令部長伊東裕亨が同行していた。東郷はこの一座ではもっとも小柄であった。
しかし平素無口で、入念慎重な性格であり、その青年時代から経てきた数多くの戦闘においては、しばしば切れ味のいい指揮を見せてきたが、しかし大言壮語ということからおよそ遠い性格であった。その東郷が、
「かならずこれを殲滅いたします」
と、ぼそぼそと言上したのである。
この 「殲滅」 という極端な表現には伊東も山本もよほど驚いたらしく、あとで、
「東郷のやつ、とんでもないことを言上した」
と、両人が何度もぼやいた。
両人とも東郷と同様、薩摩人であった。薩までは昔から誇張表現や観念的な表現の習慣がなく、それを卑しむ傾向の方が強かった。
東郷は天子に向かってホラを吹く気か、という明治人らしい懼れと、それとは別に密かながら、
“この薄ぼんやりした東郷が、存外・・・・”
という、見直して頼もしく思う気持ちとがこもごも両人にあった。
後年、この話題だ出るたびに両人はあの時の東郷を可笑しがったというが、それほど明治軍人の感覚から誇張表現は遠かった。
しかしこの大本営に対し東郷が打つ電文にあっては、東郷としては明治帝に約束した通りの言葉を使うべきであった。
東郷の言上に就いては、若い幕僚まで知っていたために、この草稿になったのである。

電文のこと、つづく。
「殲滅」
という用語が使われた動機の一面については述べた。
いま一面は戦略的にそれをしなければ日本海海戦の意味は失われるのである。
こちらがたとえ半分沈んでも敵艦を一隻残らず沈めなければ戦略的に意味をなさないという困難な絶対面を東郷とその艦隊は背負わされていた。
「バルッチク艦隊は、戦艦、巡洋艦のうち、たとえ何隻でもいいからウラジオストックに逃げ込み、日本の海上権を撹乱する可能性を残せば、それで十分ロジェストウェンスキーの勝利である」
という専門家の論評さえ外国の新聞に載ったほどであった。
ロジェストウェンスキーはウラジオストックに逃げ込むのが戦略目的であった。自己の戦略目的を達成することは、たとえより薄い勝利にすぎなくあっても、成功であることには間違いなかった。
その 「成功」 によってロシアは今後日本の海上交通を脅かし、満州の日本陸軍を日干しにするという重大な戦略的優位に立ち得るのである。
これを逆にいえば東郷の場合、ロジェストウェンスキーが持っている軍艦という軍艦を全部たたき沈めてしまわなければ、勝利にならなかった。
戦略上、東郷は 「之ヲ殲滅」 すべく要求されていたのである。

次いで真之が付け加えたところの、
「天気晴朗ナレドモ浪高シ」
について、のち海相山本権兵衛が、
「秋山の美文はよろしからず、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するにある。美文はややもすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世をまどわすことがある」
と、評した。
原則としては山本のいうとおりであった。
しかしながらこの場合、真之の方に分があった。
真之は美文を付け加えるつもりはなかった。
かってウラジオ艦隊の巡洋艦三隻が日本近海に跳梁して陸軍輸送船を何隻も沈めていた時、それを追っかけるべく義務づけられていた上村艦隊が、肝心な時になると濃霧に遭い、そのためしばしば敵を取り逃がした。
「天気晴朗」
というのは、その心配がない、ということであり、視界が遠くまで届くため取り逃がしは少ない、よいうことを濃厚に暗示している。
さらに砲術能力については、日本の方が遥かに優れていることを大本営も知っていた。視界が明朗であれば命中率が高くなり、撃滅の可能性が大いに騰がるということを示唆している。
「浪高シ」
という物理的現象は、ロシアの軍艦において大いに不利であった。
敵味方の艦が波で動揺するとき、波は射撃訓練の充分な日本側のほうに利し、ロシア側に不利をもたらす。
「きわめて我が方に有利である」
ということを、真之はこの一句で象徴したのである。
このことは電文を受け取った東京の軍令部は理解した。軍政家の山本は、おそらく世界海軍史上最大の海軍の作り手であったが、戦闘や作戦の経験がほとんどなかったため、真之の文章を単に美文と思ったのかもしれない。
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艦隊が鎮海湾および加徳水道を出てゆくとき、湾の一番奥にいた旗艦三笠は他の艦が動き出してからも、じっとしているかのように見えた。
「あれはおそらく陸上との連絡があって、遅れているのだろう」
と、あわただしく出港して行く各艦のなかにあってひとり静まっている三笠の印象について、当時の巡洋艦の乗組員が印象を書き残している。
やがて旗艦三笠が動き出した。追いついて先頭に立つべく、みるみる速力を上げ始めた。
人々が艦内をいそがしく駆け回っていたが、出港にともなうあらゆる作業その他が終る頃には、新品の白い戦闘服姿が艦内に増えはじめ、人々の動きがゆるやかになってきた。
真之は他の幕僚と同様、紺の軍装である。
ただこの男は、軍服の上衣の上に剣帯の革ベルトを巻いて腹を締め上げて艦橋に現れた。
その珍妙な姿を見て、若い士官がうつむいて笑いを噛み殺したが、真之は知らぬ顔でいた。
「褌論」
というのが、真之の持論であった。彼は褌の文字が衣ヘンに軍と書くのは臍下丹田を引き締めて胆力を発揮するためのもので、戦はそれで臨まねばならぬ、とかねがね言っていたが、剣帯のベルトを褌がわりにして出て来ようとは、だれの目にも意外だった。
東郷は端正な服装を好んだ。真之のこの異装を見て、めったに感情をあらわさない彼が、さすがにいやな顔をした。
しかし真之は知らぬ顔でいた。この男はやはり相当変物だったようである。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ