〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/22 (月) 抜 錨 @

○信濃丸が発した 「敵艦隊見ゆ」 の無電は、対馬に碇泊中の第三艦隊旗艦厳島から鎮海湾の三笠あて、午前五時五分に中継打電された。
すでに暗合が決められている。タの字をつづけさまに七度打つのである。
「タタタ タタタタ」
この早暁、鎮海湾から加徳水道にかけて錨を降ろしているあらゆる軍艦の無線機が、いっせいに鳴った。
むろん三笠の無線機も鳴った。
このとき、軍楽手河合太郎は、他の三人の軍楽手と一緒に無線助手をつとめていた。無線機をそうさする助手ではなく、伝令であった。無線掛が受信すると、その暗合を翻訳し、それを封筒に入れる。その封筒を持って司令部へ突っ走るのが役目であった。
四人のうち一人づつが当番でこの仕事をするが、この日の当番は運悪く河合太郎ではなく、河合より二つ年下の一等軍楽手加瀬順一郎であった。
受信は海軍軍令部の公刊戦史では、
「午前五時五分ごろ」
となっているが、河合の記憶では、加瀬順一郎が走り出したときには、兵員達は甲板で体操をしていた。毎朝午前五時ごろに、
「総員お越し」
というのがある。艦内はいっせいに起き、手の空いたものは全部甲板に出て十分ばかり体操をするのである。
ここへ加瀬順一郎が走ってきた。走りながら、
「そら来たぞっ」
と、叫んだ。体操をしている手足がいっせいに止まり、みな総毛立つような衝撃の中でこれを聞き、いっせいに持ち場に向かって散った。

このとき秋山真之は後甲板でひとり体操をしていたが、このとき近くにこの旗艦の砲術長の安保清種 (アボ キヨカズ) 少佐がいた。
安保も記憶では真之の動作が急に変化して片足で立ち、両手を阿波踊りのように振って、
「シメタ、シメタ」
と踊りだしたというのである。
「秋山さんは雀踊りしておられた」
と、安保は後々まで言った。

-----敵は津軽へまわるのではないか。
という疑念が、えたいの知れぬ怪物のようになって、ここ一週間ばかりの間真之の背後から重くかぶさっていた。
もし敵が津軽まわりをしてくれば真之が樹てた七段構えの戦法は根底から崩されざるを得ず、いそぎ津軽へ駆けつけたところで、時間・空間という物理的制約のために敵をいくらも沈められない。
対馬コースを取って来てくれれば、真之は予定した作戦計画どおりに敵を迎えることができ、ウラジオストックまでの間、十分な時間と豊かな空間を戦闘に使うことが出来るのである。
戦術家というものは、 「敵が予想通りに来る」 ということの不思議な瞬間に賭けているようなものであり、戦術家としての仕事の殆どはこの瞬間に完成する。
となれば、真之が勝利間を味わったのはこの 「敵艦見ゆ」 の瞬間であった。あとは東郷という用兵者の用兵能力と連合艦隊の構成員の練度や士気が勝利を具体的なものにしてゆくにちがいない。
いずれにしても、真之は狂喜した。
真之の苦悩のあげくのこの狂喜は、彼をして不可思議な力を感じせしめるもとにもなった。この 「ふしぎな瞬間」 は人間を超えた力がもたらしてきてくれたのではないか、ということである。
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加藤参謀長は、なお長官公室にいる。電報の翻訳文を見せた後、蒼白のひたいを光らせて、
「艦隊に出港を命じます」
と、東郷の了解をもとめた。
「うん」
東郷がうなずいた。東郷が民族の興亡を決すべき運命の戦いへスタートするにあたって、意思表示したことといえばただそれだけだった。
彼はよく整った品のいい顔付きをしていたが、その表情から先ほどの喜色が消え、普段の東郷の顔付きに戻っていた。ちょうど陽のよくあたる場所で田の面を眺めている老農夫の顔のように平凡で静かで、少しの劇的要素もなかった。日本人は情景が劇的であればあるほどその主観的要素を内部にしまい込んでしまうところがあり、東郷のこの光景は能に似ていた。
各艦はただ命令を待つだけになっていた。
あらかじめ各艦に対しては、
「文書による事前令達」
というものが出ていた。出港順序などもわかっており、石炭は既に二日前に補充が完了していた。さらに機関もウォーミング・アップしており、どの艦の煙突からも煙が出ていた。
命令があり次第、全艦隊は無言無声のまま、するすると出てゆけるようになっていたのである。この点も能に似ていた。
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入電した時真之は後甲板にいたことはすでに述べた。
彼は例の奇妙な踊りを止めて、恐ろしく速い足どりで歩き始めた。当然のことながら 「敵艦見ゆ」 の瞬間に彼は幕僚室にいないとまずいのである。駆けたかったが、参謀が血相変えて走っているようでは、ひとびとはなにごとがあったにかと疑い、士気にかかわるだろうと思った。このため大またの急ぎ足になったのだが、ちょうどフルスピードを出した水雷艇のように尻がやたらと左右に動いた。
真之はもう満で三十七歳になっていたが、腰まわりに変化がなく、目方も兵学校のころとはさほど変わらず、よくしまった筋肉質の体は、無駄がなさすぎるのがむしろ難点といえるほどに小気味よく均斉がとれていた。
彼は幕僚室に帰ると、机の上に両肘をつき、上体を乗り出し、癖のあるするどい目をぎょろぎょろさせてまわりを見た。
作戦参謀である真之のなすべきことは九割まではこの事前においてすでに終了した。あとは戦いに臨んでその結果を神の前でテストを受けるのみであったが、しkし今直ちにやらねばならぬことが、少なくとも一つはあった。
大本営に電報を打つことである。
連合艦隊司令長官である東郷が、決戦場に向かうにあたり、故国に向かってその決心を述べるための電報であり、その起草をしなければならない。
真之は後々まで日本海軍の神秘的な名参謀といわれた。そのため、この有名な電文の起草者が彼であるということになった。
彼は秋山文学といわれたくらいに名文家であったことも、その誤解を生んだ。
電文は、真之が起草したものではなかった。
げんに、真之の目の前で飯田久恒少佐や清河純一大尉らがしきりに鉛筆を動かしている。
やがて飯田少佐が真之のところへやって来て、草稿を差し出した。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」
と、あった。
「よろしい」
真之は、うばずいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとに持って行くべく駆け出そうとした。
そのとき真之は、 「待て」 と、とめた。
すでに鉛筆を握っていた。その草稿を取り戻すと、右の文に続いて、
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
と入れた。
後年、飯田久恒は中将になったが、真之の回顧談が出るたびに、
「あの一句を挟んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」
と、語った。
たしかにこれによって文章が完璧になるというだけでなく、単なる作戦用の文章が文学になってしまった観があった。さらにはそれ以上の意味も含まれているのだが、そのことは後で述べる。
実を言うと、この
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
という文章は、朝から真之の机の上に載っかっていた。
東京の気象官が、大本営を経て毎朝届けてくる天気予報の文章だったのである。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ