〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/03 (土) 雨 の 坂 E

○一つの情景がある。
連合艦隊が横浜沖で凱旋の観艦式を行ったのは十月二十三日である。その翌々日の朝、真之は暗いうちに家を出た。
途中、根岸の芋坂と呼ばれている辺りの茶店で一休みした。この朝、
----根岸へゆく。
と言い残して家を出たのは、子規の家にその母と妹を訪ねるつもりだったのだが、朝食をとって来なかったためにこの茶店に立ち寄ったのである。
真之は粗末な和服に小倉の袴をはき、鳥打帽をかぶっている。一見、神田あたりの夜間塾の教師のようであった。
「めしがあるかな」
と、茶店に入るなり、松山訛で少女に言ったために、返事もしてもらえなかった。この茶店は 「藤の木茶屋」 と呼ばれて江戸の頃からの老舗なのである。団子を売る茶店で、飯は売らなかった。その団子のきめの細かさから羽二重団子と呼ばれて往還を通る人々から親しまれている。
「団子ならありますよ」
と、少女が言った。真之はやむなく団子を一皿注文した。
「鶯横丁はすぐそこじゃな」
「半丁ほどむこうです」
「正岡子規という人の家があるが、知っておいでか」
よ聞いたが、少女は子規の名も知らなかった。真之はだまって団子を食った。
鶯横丁というのは弓なりにまがっている。板塀が続き、その向こうに楢や欅の大木が風の中で梢を騒がしている。横丁の道幅は一間ほどで、相変わらずこの界隈は排水が悪く、黒っぽい道が気味悪いほど湿っていた。
子規の家の前まで来ると、真之の身動きが急に鈍った。この一見幅の道からすぐ玄関の格子戸が見える。家の中に人の気配がした。母親の八重か、妹の律か、どちらかであろう。
子規の遺族というのはこの二人しか居らず、病床の子規を守って子規の生前から三人が寄り添うようにして暮らしてきた。その一人が欠けた。
頭上で、梢の鳴る音がした。真之はよほど長い間路傍で立っていたが、やがて歩き始め、しだいに足早になった。
律は家の前に人影が立っていることに気づいていた。薄気味悪く思い、母親の八重に告げた。八重が路上に出てみると、真之の後姿だけが見えた。
「あれは淳さん (真之) みたようじゃったが」
と、八重は家の中に戻って、律に言った。律は驚いて後を追ったが、しかしもう姿がなかった。
「淳さんなら軍艦に乗っておいでじゃけん、人違いじゃろか」
と、格子戸の前で母親にささやいた。ところが後でこの母娘は、子規の菩提寺の大竜寺からきた役僧の話で、目の鋭い柔道教師のような壮漢が寺に供養料を置いていった事を知った。
-----いいえ、あれは海軍士官じゃまかったですよ。
と、役僧が断定したのは、その人物が軍服を着ていなかったというだけの理由によるらしい。

真之はそのあと三キロの道を歩き、田端の大竜寺まで行っている。
田端まで行くと、坂がきつくなる。登りきって台地に出ると、辺りに人家はなく、はるか北に荒川の川岸が望まれ、上り下りする白帆が空と水に浮んでまるで広重の絵を見るようであった。
この辺りはケヤキやカヤの老樹が多く、とくに大竜寺の墓地の背後は鬱然としている。
「あしが死ねばあの寺に埋めてくれ」
と子規自らがその菩提寺を選んだこの寺は、本堂がひどく田舎びて十間四方の大きな茅ぶきであった。
墓地は本堂に向かって左横にある。子規の墓はその奥にあった。
「子規居士之墓」
と、御影石に刻まれた石碑があり、その辺りの楓が見事に色づいていた。
真之がこの墓前に立ったとき、まだ真鍮板に刻んだ墓誌の碑は出来ていなかったが、その草稿だけは出来ていた。子規自身が生前に書いたものであり、子規の死後、真之もそれを見た事がある。
その死者自作の墓誌は真之の文章感覚からすれば一種不思議な不思議な文章のように思われたが、しかし子規が主唱しつづけた写生文の極地といったようなものであった。
子規居士とは何者ぞということが数行で書かれている。

「正岡常規 (ツネノリ) 又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升 (ノボル) 又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭 (ダツサイ) 書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日歿ス享年三十□月給四十円」

真之はこの墓誌を暗誦していた。ここには子規がその短い生涯を費やした俳句、短歌のことなどは一字も触れられておらず、ただ自分の名前を書き、生国を書き、父の藩名とお役目を書き、母に養われた事を書き、勤め先を書き、さらに月給の額を書いてしめくくっている。
子規は自分の墓誌を病床で書いた。書き終わった後、友人の河東銓にそれを送り、これについて以下の手紙を同封している。

「アシヤ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ、石碑立テテモ字ナンカ彫ラン主義デ、字ハ彫ツテモ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ、ムシロコンナ石コロヲコロガシテ置キタイノジャケレドモ、万一已ムヲ得ンコトニテ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ尽シトルト思フテ書イテ見タ、コレヨリ上一字増シテモ余計ジヤ」

と、子規はその意図を述べている。この墓碑の文体は子規の写生文の模範というより、子規という人間が、江戸末期に完成した武士的教養人の最後の人であったことをよくあらわしている。

石碑が濡れはじめ、真之は墓前を去った。
雨になった。庫裡で古笠と古蓑を借り、供養料を置いて路上へ出た。
道は、飛鳥山、川越へ通ずる旧街道である。雨の中で緑がはるかに煙り、真之はふと三笠の艦橋からのぞんだあの日の日本海の海原を思い出した。

秋山真之の生涯も、必ずしも長くはなかった。大正七年二月四日、満五十歳で没した。
日露戦争の後の彼は海軍部内における穏当な官僚ではなかった。一見、突拍子もない言動がしばしば人を面食らわせ、一部では一人格に天才と狂人が同居しているのではないかと言われたりした。
-----君は頭脳を休める工夫をせよ。
と、真之がかって仕えた上司の参謀長だった島村速雄がしばしば忠告したが、島村のいう 「扇風器のような」 頭脳は日本海における作戦の任務が終ってからも他に目的を求めて旋回し、人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要な事ばかりであった。
ただ第一次世界大戦が起こったとき、彼は公務でパリへ行き、この大戦の進行と結末についての予想を立て、ことごとく的中させた事ぐらいが真之らしい挿話というべきものであった。
真之は大正六年中将に昇進したが、すでに健康を損なっていたためそのまま待命になり、その三ヵ月後に死んだ。
彼はたまたま小田原の知人の別荘に泊めてもらっているときに慢性腹膜炎が悪化し、二月四日未明、吐血して臨終を迎えた。
臨終の時枕頭に集まっていた人々に、
「みなさんいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」
と言った。それが最期の言葉だった。兄の好古は検閲の為に福島県白河に出張中で、小田原に集まっている人々に 「ヨロシクタノム」 という電報を打っただけであった。

好古はやや長命した。
彼は大正五年に陸軍大将になり、同十二年に予備役に入った。その翌年故郷の北予中学校の校長になり昭和五年満七十一歳で病没する年までその職を続け、やがて死の年の四月に辞任して東京へ帰った。老後を養うつもりであったが、ほどなく病死した。
病名は糖尿病と脱疽である。左足の痛みがはなはだしく、当人は最初は神経痛だろうと思っていた。入院前、赤坂丹後町の借家に訪ねてきた松山の幼友達に、
「もうあしはすることはした逝ってもええのじゃ」 と言ったりした。
やがて牛込戸山町の陸軍医学学校に入院し、初めて酒のない生活に入った。医師たちは左足を切断する事にずい分ためらったが、結果はその手術を行った。しかし菌は切断部よりも上部に侵入していた。手術後四日間ほとんど昏睡していたが、同郷の軍人で白川義則が見舞いに来た時、好古の意識は四十度ちかい高熱の中に漂っていた。
彼は数日うわごとを言いつづけた。すべて日露戦争当時のことばかりであり、彼の魂魄は彼を苦しめた満州の野戦を彷徨い続けているようであった。
臨終近くなった時、 「鉄嶺」 という地名がしきりに出た。
やがて、 「奉天へ。------」
と、うめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ