〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/02 (金) 雨 の 坂 D

○「清岡よ」
と、ある夜、副官に言った。
「ロシアは社会主義になるだろう」
どういうわかです、と清岡が聞くと、
「理由など、わかるものか。カンじゃ」
と、好古はシナ酒を飲みながら言った。
ただ清岡には社会主義よいうものがよくわからず、率直にその解説を好古に求めた。ところが清岡にとって多少意外な事だったが、無口で武骨だと思っていた好古がその方面の知識を豊富に持っていたことである。
「なあに、耳学問だよ」
と、好古は言った。清岡はいよいよ驚き、閣下は社会主義者とお付き合いがあるのですか、と聞くと、ああフランスで知り合ったよ、と好古は答えた。
好古が若い頃フランスに留学していた時、しばしば酒場へ行った。彼のゆきつけの酒場は社会主義者の集まる所で、ある日、袖を引かれた。
袖を引いた男が、社会主義者だった。彼は好古に向かって社会主義がいかに正義であるかを説いた。やがて親しくなると、地下室に案内された。そこでその方面のいろんな連中と会った。
「決して悪いものじゃない。いい所もあるよ」
と好古はこの時清岡にも言ったが、彼の晩年共産党の問題がやかましくなった時も 「悪意をもって共産党の問題を考えるようでは何の得るところもないよ」 と言ったりした。
ロシアが社会主義国になるだろうという好古のカンは、ロシアがその栄光とする陸軍が日本のような小国に敗れたからだという。
「ロシア陸軍は、国民の軍隊ではないからな」 とだけ言った。
ロシアのその世界最大の陸軍は皇帝の私有物であるにすぎない。ということであろう。その軍隊が外国に負けたとき人民の誇りは少しも傷つかず、皇帝のみが傷つく。皇帝の権威が失墜し、それによって革命が起こるかもしれない、ということであるらしかった。
日本の軍隊はロシアとはちがい、国軍であると、好古はよく言った。
好古は生涯天皇については多くを語らなかったが、昭和期において濃厚なかたちで成立する 「天皇の軍隊」 という憲法上の思想は好古の時代には単に修辞的なもので、多分に国民の軍隊という考え方のほうが濃かった。
「ナポレオンはフランスに史上最初の国民軍を率いたから強かったのだ」
と好古はよく言ったが、日露戦争における両軍の強弱の差もそこから出ている。と好古は考えたらしい。好古にすれば日本軍は国民軍であった。ロシアのように皇帝の極東に対する私的野望のために戦ったのではなく、日本側は祖国防衛戦争のために国民が国家の危機を自覚して銃をとったために寡兵をもって大軍を押し返す事が出来たのだ、という意味であるようであった。

社会主義についての好古の理解の程度がどの程度のものであったかはよくわからない。
ただ、こういう話がある。
好古は乃木 希典との縁が浅くはなかったが、その最初の出会いはパリにおいてであった。
乃木は陸軍少将の時に外遊した。ときに三十九歳で、明治二十年のことである。パリへ行き、フランス陸軍省を訪ねた時、ちょうど留学中だった好古が通訳した。
そのとき新聞記者が訪ねてきて乃木に会見を申し入れた。乃木は承諾し、好古が通訳した。
死の記者の質問が、
「社会主義をどう思うか」
であったのである。乃木は社会主義についてさほどの知識はなかった。好古は乃木の為に社会主義について簡単な解説をした。
その解説が、
「平等を愛する主義です」
という簡単なものだった。身分も平等、収入も平等の世の中にするということです、というと野木は大きく頷き、
「しかし日本の武士道のほうが優れている」
と、多少質問の趣旨と食い違っているとはいえ、ひどく断定的な調子で言った為、記者のほうが圧倒された様子だった。
乃木は、言う。
「武士道というのは身を殺して仁をなすものである。社会主義は平等を愛するというが、武士道は自分を犠牲にして人を助けるものであるから、社会主義より一段上である」
乃木という人物は、既に日本でも亡びようとしている武士道の最後の信奉者であった。この武士道的教養主義者は、近代国家の将軍として必要な軍事知識や国際的な情報感覚に乏しかったが、江戸期が三百年かかって作りあげた倫理を蒸留してその純粋成分で持って自分を教育仕上げたような人物で、そういう人物が持つ人格的迫力のようなものが、その記者を圧倒してしまったらしい。
好古は乃木ガ嫌いではなかった。しかし乃木の旅順要塞に対する攻撃の仕方には無言の批判を持っていたようであり、たとえば、
「日本の非力な騎兵が、数倍のミシチェンコ騎兵団をなんとか追い払ってゆくことが出来たのは俺の功績ではない。日本の騎兵が最初から機関銃を装備していたのに対し向こうが持っていなかったからである。精神力を強調するのあまり火力を無視するという傾向はどうも解せない」
と、よく言っていたのは、あるいは一種の乃木批判になるかもしれない。
乃木は身を犠牲にすると言いつつも、台湾総督をつとめたり、晩年は伯爵になり、学習院長になったりして、貴族の子弟を教育した。
しかし好古は爵位も貰わず、しかも陸軍大将で退役したあとは自分の故郷の松山にもどり、北予私立中学という無名の中学の校長をつとめた。
黙々と六年間つとめ、東京の中学校長会議にも欠かさず出席したりした。
従二位勲一等功二級陸軍大将というような極官に上った人間が田舎の私立中学校の校長をつとめるというのは当時としては考えられぬ事であった。
第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし松山の家は彼の生家の徒歩屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想が好きであった。好古が死んだ時、その知己たちが、
「最後の武士が死んだ」
といったが、パリで武士道を唱えた乃木よりあるいは好古の方がごく自然な武士らしさを持った男だったかも知れない。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ