〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/02 (金) 雨 の 坂 C

○好古がこの戦いの最初から献策しつづけてきたのは、彼の構想による日本の騎兵団の体質強化であった。
まず火力の強化によって敵のコサック騎兵の優越性に対抗しようという思想だが、そのことは機関銃の装備とか野砲や山砲を騎兵砲として使うということで、ある程度かなえられた。
さらに彼は騎兵の得失を生かす道のひとつである集団使用の強化とその集団をさらに大規模ならしめて敵に対する穿貫攻撃力を増大するということをしつこく献策しつづけた。
後年の戦車用兵に相当する思想を好古はすでに思想として騎兵の上に実現しようとしていた。
これがようやく実現をみたのは、休戦の直前である。彼一人の指揮下に騎兵二十六個中隊が集中的に配属され、その装備火力も日本軍としては精一杯の充実をみた。
「秋山騎兵団」
という名称のもとに依然乃木軍の隷下におかれた。
既に述べたように二人の参謀も配置された。これによって数量的にはなお敵のミシチェンコ騎兵団よりも劣勢ながら、日本における単独行動力をもった機動兵団が最初に成立したのである。
ついでながら戦後はこの思想が衰弱し、昭和十四年のノモハンにおける敗北後、ふたたび日本軍の一部でこの考え方が成立したが、十分されないままに日本軍そのものが負滅した。
秋山騎兵団の成立は乃木軍司令部の若い参謀たちの気分を昂揚させたらしい。ある参謀が、好古の司令部に電話をかけてきて盛岡守成という好古の中佐参謀を呼び出し、
「新編成の秋山騎兵団を一度も戦場に用いる事なしにこの戦役を了えるのは残念なことだから、一度やってみないか」
と、言った。乃木軍司令部は旅順攻略の当初から司令部軍規が乱れているという定評があったが、一つにはこういう気分もそれを物語っていると言えるかも知れない。乃木希典の意見を聞くことなくいきなり下部団隊の参謀をけしかけるようなことを言って来るのである。
攻撃すべき対象は、遼陽窩棚において強力な陣地を構築してしかも陣地活動をしきりにやっているミシチェンコ騎兵団であった。
しかしすでにポーツマス条約の成立が確定している時であった。
「武を汚すものだ」
と、好古は断固としてはねのけた。
やがて平和条約が批准されて、十月二十一日、彼の秋山騎兵団はその軍隊区分を解いた。
彼は凱旋にあたって兵士達の為に教訓歌のようなものをつくった。この人物は弟と違って文才はなかった。しかし弟よりも情においてはいかにも江戸期の気分を残しており、その歌というのは 「連合艦隊解散ノ辞」 のように歴史や国家の前途を論じたものではなく、
「別れに臨んで教へ草、先ず筆とりて概略を」
という、一見おどけたような七五調で、田園や市井に戻ってゆく兵士に処世の道を諭し、 「自労自活は天の道、卑しむべきは無為徒食、一夫一婦は人道ぞ」 と延々と続いて行くものであった。
好古が内地に凱旋したのは弟の真之よりもずっと遅く、明治三十九年二月九日であった。
そのまま騎兵第一旅団の衛戍地である千葉県習志野の兵舎にはいった。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ