〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/02 (金) 雨 の 坂 B

○東郷とその連合艦隊の大部分は凱旋の命令があるまで佐世保港内にとどまっていた。
そういう待機期間中、珍事が起こった。旗艦三笠が自爆し、六尋の海底に沈没してしまったのである。九月十一日午前一時すぎの出来事であった。
ちょうど東郷は陸路東京へ向かいつつあった。真之も随行していた。その急報に接して真之はすぐさま引き返し、佐世保鎮守府司令部の玄関に入ってみると、すでに事件直後の騒ぎが一応静まったのか、庁舎内の廊下を歩く士官の表情の硬さだけが事件の名残を残している程度だった。
当夜、死者は三百九十三人であった。
他の半数は半舷上陸していたために危難を免れた。 火薬庫が爆発した。が、なぜ爆発したかとなるとよくわからず、推測の手掛かりもない。下瀬火薬が貯蔵の条件によってどう変質するかということも、この火薬が開発されてそれが試されるだけの十分な時間が経っていないため一切不明であった。
不平水兵が放火したのではないかという説もあったが、戦勝後でもありまた士気の一般的状況からみて考えられなかった。結局は火薬の自然変質による爆発というごとく常識的な観測が佐世保の現場での大方の考え方であるようだった。
「現場をご覧になりますか」 と若い士官が真之に言ったが、真之は見るに忍びなかった。 彼と共に日本海の海上で戦ってきた三百三十九人の戦友が敵弾で斃れることなく戦勝後事故で一挙に死んだ。数奇というよりもこの奇怪さが、真之の多分に宗教性を帯び始めている感情には堪えられなかったのである。
ついでながら日本海開戦における侵入群 (ロシア) の死者は約五千人で、捕虜は六千百余人である。防御軍である日本の戦死は百数十人に過ぎなかった。
真之はロシア人があの海戦であまりにも多く死んだことについて生涯の心の負担になっていたが、それにひきかえ日本側の死者が予想外に少なかったことを僅かに慰めとしていた。が、戦闘で死んだよりも遥かに多数の人間が火薬爆発といういわば愚劣な事故で死んだことに、真之は天意のようなものを感じた。 あの海戦は天佑に恵まれすぎた。真之の精神は海戦の幕が閉じてから少し実ずつ変化しはじめ、あの無数の幸運を神意としか考えられなくなっていた。
というよりも一種の畏怖が勝利のあとの彼の精神に尋常でない緊張を与えはじめていたのだが、この旗艦三笠の沈没は日本に恩寵を与えすぎた天が、その差引勘定を迫ろうとする予兆のようにも思われるのである。
真之が到着した朝」、大本営から命令が入った。 旗艦が敷島に変わった。あれだけ奮戦した三笠はその栄光を受くべき凱旋の日の旗艦ではなくなったのである。

真之は文章家とされた。
確かに彼の文章は簡潔でしかも波涛の中で砲火の閃々ときらめくような韻律性に富んでおり、さらには新しい観念を短切に表現するための造語力も持っていた。ただ彼は文士ではなく、その文章は公文書の形で発表されたものであったが、しかし同時代の文章日本語に少なからぬ影響を与えた。
発表されたものであったが、しかし同時代の文章日本語に少なからぬ影響を与えた。 彼の書いた文章の特徴は、例えば連合艦隊司令長官東郷平八郎が海軍軍令部部長伊東裕亨へ送った戦闘詳報にもよく表れている。我々はこの文章によって日本海海戦の戦闘経過を的確に知ることが出来るが、その事実関係で組み上げられた膨大な報告文の冒頭は一個の結論から始まっている。
「天佑ト神ニ由リ、我カ連合艦隊ハ五月二十七八日、敵ノ第二、第三連合艦隊ト日本海ニ戦ヒテ、遂ニ殆ト之ヲ撃滅スルコトヲ得タリ」
から始まり、以後は
「始メ敵艦隊ノ南洋ニ出現スルヤ、上命に基キ、当隊ハ予メ之ヲ近海ニ迎撃スルノ計画ヲ定メ、朝鮮海峡ニ全力ヲ集中シテ徐ニ敵ノ北上ヲ待チ・・・・・・」
といきなり事実関係に入っている。
これをロジェストウェンスキーがその皇帝に上程した電報の報告文に比較すると、ロ提督のそれは単に経過を書き、結論もなく、しかも文章の多くは自分の運命について割かれており、自分が負傷したこと、知覚を失ったこと、自分が意識不明の間に、自分が収容されていた駆逐艦が日本側に降伏したことなどが書かれ、全般の戦況は不得要領にぼやかされ、勝敗についても触れられていない。
報告文においてもロジェストウェンスキーは日本側よりはるかに劣っていた。

この艦隊が東京湾に凱旋したのは十月二十日である。大将旗が掲げられた旗艦敷島はこの日横浜港に入り、水煙をあげて錨を入れた。
その翌々日、東郷は参内しなければならなかった。凱旋の奏上をするためであった。 凱旋の奏上は日清戦争の例では今度もその先例に準るはずと参謀長の加藤友三郎も思っていたところ、陸軍がすでに文章を作り上げていると知り、加藤は慌てた。
東郷が上陸する前日のことである。
参謀清河大尉の記憶では、加藤が慌しく幕僚室に入ってきた。この時清河は真之と一緒に長唄の蓄音機を聴いており、真之はソファに寝転がっていた。
「秋山さんはむくりと起きあがって」
と、清河の話にある。
真之はすぐその場で筆をとり、しばらく筆を噛んで考えている様子だったが、あと一気呵成に書き上げた。それが、 「客歳二月上旬」 という文章から始まる凱旋上奏文である。
「客歳二月上旬、連合艦隊カ、大命ヲ奉シテ出征シタル以来、茲ニ一年有半・・・・・今日復ヒ平和ノ秋ニ遇ヒ、臣等、犬馬ノ労ヲ了ヘテ大纛 (天皇旗) ノ下ニ凱旋スルヲ得タリ。(以下略)

余談ながら明治期に入っての文章日本語は、日本そのものの国家と社会が一変しただけでなく、外来思想の導入に伴ってはなはだしく混乱した。
その混乱が明治三十年代に入ってからの型に整理されていくについては規範となるべき天才的な文章を必要とした。
漱石も子規もその規範になった人々だが、彼らは表現力のある文章語を創るためにほとんど独創的な (江戸期に類例を求めにくいという意味で) 作業をした。
真之の文章も、この時期でのそういう規範の役目をしたというべきであったろう。
彼は報告文においてさかんに造語した。せざるを得なかったのは文章日本語が共通のものとして確立されていなかったことにもよる。その言いまわしも彼自身が工夫せざるを得なかった。
そういう意味で、彼の文章が最も光彩を放ったのは 「連合艦隊解散ノ辞」 である。

戦時編制である 「連合艦隊」 が解散をしたのは十二月二十日で、その解散式は翌日旗艦において行われた。
旗艦はこの時期、敷島から朝日になていた。朝日のまわりには汽艇が密集し、各司令長官、司令官、艦長、司令などが次々に来艦して来た。やがて解散式が始まり、東郷は、
「告別の辞」
と、低い声で言い、有名な 「連合艦隊解散ノ辞」 を読み始めたのである。
長文であるため引用をひかえるが、この文章の中で後々まで日本の軍人思想に影響したものを挙げると、

「・・・・・・百発百中の一砲、能く百発一中の敵砲百門に対抗しうるを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。
・・・・・・惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理なし、事有れば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本分を尽さんのみ。
過去の一年有半、かの風濤と戦ひ、寒暑に抗し、屡頑敵と対して生死の間に出入せしこと、もとより容易の業ならざりしも、観ずればこれまた長期の一大演習にして、これに参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福、比するものなし」

以下、東西の戦史の例を引き、最後は以下の一句で結んでいる。

「神明はただ平素の鍛錬に力め戦はずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者よりただちにこれをうばふ。古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と」

この文章は様々の形式で各国語に翻訳されたが、とくに米国大統領のセオルド・ルーズベルトはこれに感動し、全文を翻訳させて自国の陸海軍に配布した。
真之の文章は以上の例でもわかるように漢文脈の格調を藉りつつ欧文脈の論理を出来るだけ取り入れているため翻訳に困難がともなう事はなかった。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ