〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/02/01 (木) 雨 の 坂 A

○風は凪いだ。
三笠とそれが率いる第一、第二戦隊は帰路についている。真之はときどき上甲板を散歩した。 海の凪が、彼には変に虚々しくみえた。
戦いの最中、天も動き海も荒れた。敵味方の砲弾が飛び交い、それが空気を切り裂き、瞬時々々に真空を作ることによって異様な音が天に交錯した。落下弾は海をたぎらせ、駆け回る各艦が狂ったように閃光を吐いた。
それらすべての状況が消え去ってみると、海の表情まで一変してうそのように凪ぎ、どの艦もゆるやかに航海している。
濃灰色に塗られた艦体は被弾や火災によって少しは剥げていたが、しかしそれらの色体の群れは空と海によく映えていた。
ただこれらの濃灰色の群れが、黒ペンキで塗られた何隻かの軍艦を同行していることが多少開戦前とちがっていた。黒い艦の群れは、ネボガトフの降伏艦隊であった。 五月三十日の太陽がやや傾くころ、東郷とその艦は佐世保に入港した。
(ベドーウィがいる)
と、上甲板にいた真之がめざとく発見した。
ロジェストウェンスキー提督を乗せた駆逐艦ベドーウィが、一足先に佐世保に入っていた。それを見たとき、真之の感情に異変がおこった。彼はほんの一、二分の間だが、涙が目に溢れ、激しく頬をつたって流れた。この感情の変調は、敵への労わりか勝利への安堵といったようなものではなさそうであった。
後年の彼の言動から察して戦そのものが持つ悲惨さに撃たれたということもあったろう。さらには彼が後に信ずるようになった人為以上の意思をこの鉄の群れと水が構成する情景のなかで激しく感じたのかもしれない。
この日、午前中は晴れていたが、午後から雲が厚くなった。佐世保の地形は大小の島と岬と山が内懐ろの深い小湾をつくっていて海港としての自然が長崎をしのぐ程に美しい港であったが、この午後、凱旋にふさわしくない曇天のために島々や岬の松林が黒っぽく、湾の水が鉛色で、真之の鬱情はいよいよ重いものになった。
小雨さえ降り始めた。
三笠が入港したとき、駆逐艦ベドーウィの負傷者はすべて陸上の佐世保海軍病院に移されていた。 セミョーノフ中佐も雨を避けるために毛布をかぶせられて担架に乗せられ、汽艇によって陸上へ移された。
が、艦長室で臥せっているロジェストウェンスキーのみは頭部の重傷のため移動は見合わされていた。参謀長のコロン大佐はじめ幕僚一同も艦内にとどまっていた。かれらは、自分たちの手で一艦も沈めることが出来なかった東郷艦隊がぞくぞくと佐世保港にもどってくる光景をベドーウィから見た。

ロジェストウェンスキーは、彼が演じたあれほど長大な航海の目的地がこの佐世保海軍病院のベッドであったかのように静かに横たわっている。そのことが一種喜劇的ではあったが、元来、戦争というものはそういうものであろう。
戦争が遂行されるために消費される膨大な人力と生命、さらにそれがために投下される巨大な資本の割には」、その結果が勝敗いずれであるにせよ、一種の空しさがつきまとう。
「戦争というものは済んでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに堪えなければならない」 という意味のことを、日本の将軍の中で最も勇猛な一人とされる第一軍司令官黒木為驍ェ、従軍武官の英国人ハミルトンに言ったというが、この場合のロジェストウェンスキーの役割はその最たるものであったかもしれない。そのことを、彼の病床に近づいた東郷が誰よりもよく知っていた。
東郷は、相手の役割のつまらなさに深刻な同情をもっており、相手の神経を慰めるためにのみ自分は存在していると思い、そのことを相手にわからせるために彼が身に付けているわずかな演技力で持って精一杯にふるまおうとした。
彼は白い夏衣を着ていた。病床の提督に手をさし伸ばし、握手をし、そのあと、相手に威圧を与えないようにベッドのそばのイスに腰をおろし、ロジェストウェンスキーの顔を覗き込むようにしていった。
東郷は無口で知られた男であったのに、この場合だけはひどく長い言葉をしゃべった。
東郷の言葉は、通訳の山本大尉が記憶しているところでは以下のようである。
「閣下」
と、東郷は低い声で語りかけた。
「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。今日ここでお会い申すことについて心からご同情仕ります。わらら武人はもとより祖国の為に命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありませぬ。ねがわくば十二分にご療養くだされ、一日も早くご全癒くださることを祈ります。何かご希望のことが御座いましたらご遠慮なく申し出られよ。できる限りのご便宜をはかります」
東郷の誠意が山本から翻訳される前にロジェストウェンスキーに通じたらしく、彼は目に涙をにじませ、
「私は閣下のごとき人に敗れたことで、僅かに自らを慰めます」
と、答えた。彼は戦闘概況をロシア皇帝に伝奏したいがその便宜を図ってもらえまいか、と東郷に頼んだ。
東郷にはそれを許可する権限はなかったがすぐさま承諾した。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ