〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/31 (水) 雨 の 坂 @

○筆者の机上に、三笠の艦内で真之が覗き込んでいた海図と同じものであろうと思われる古い海図が幾種類かある。
「二十九日天明、鬱陵島において装甲巡洋艦ドンスコイが日本の小艦艇群と奮戦の末え自沈、残存乗員七百七十余人が上陸、捕虜となる」
と、その海図に書き入れたとき、二十七日以来、日本海の広大な海域を舞台にして争われた二つの帝国の海場戦はその最後の幕を閉じた。
ドンスコイの装甲は強力なものであった。日本の小さな巡洋艦や駆逐艦の砲弾は無数に艦に命中したが、それらはこの艦の汽罐と舵機を破損させたのみで、装甲帯そのものは小石を投げられた程度といっていいほどびくともしなかった。
結局、この艦は二十七日午後二時以来奮戦四十時間という記録を残し、キングストン弁を開いて沈没した。
この電報が入ると、真之は海図に、
「ドミトリー・ドンスコイ」
と、その正称を入れ、自沈場所に×印をし、日時を記入して顔を上げ、
「どうやら終わりましたな」
と、加藤参謀長に言った。加藤は返事もしなかった。加藤はおよそ劇的表現の嫌いな男であり、彼にとってこの世界史上空前の大海戦を運営するにあたっても、まるで銀行員が事務を進行させてゆくようにして進行させた。
後日、彼が東京に戻ってからもこの調子であった。戦勝を祝うために私宅に訪ねてくる客を拒絶し、たまに面接しても 「何の御用ですか」 と、相手を鼻白ませ、取り付く島もない態度を見せた。
そういう無愛想さは真之の方がもっとひどかった。
「大変な勝利ですよ」
と、各艦から来る入電の整理をしていた参謀の清河大尉がやや昂奮していったときも真之は戦闘概報を書く筆を止め、ちょっと清河の顔を見たが、返事もせずに再び鉛筆を走らせた。
このため幕僚室はちょっとした奇人クラブの観があった。加藤友三郎と秋山真之がそういう調子であるため、他の幕僚達は大声をあげてはしゃぐわけにもいかず、全体の空気は病院の手術室のように静かだった。
東郷は長官室にいた。彼は入電してくる戦果についても殆ど無表情で聴いていた。この間、彼は際立った言動というものを一切せず、せいぜい湿った靴下を乾いた靴下に履き替えた程度が、従兵の目撃した記録的動作であった。
「わが方の被害は水雷艇三隻」
という、信じがたいほどの軽微さで、無傷というに近かった。
世界の海軍がその世界での唯一最大の模範としてきたトラファルガーの海戦でさえ戦勝軍である英国海軍はしの乗員の一割を失い、司令長官のネルソンは旗艦ヴィクトリーの艦上で戦死し、さらに敵の仏西連合艦隊三十三隻のうち十一隻を取り逃がすという不完全な戦勝であった。
ところがこの日本海海戦にあってはまだ詳報を得ないとはいえ、ロシア艦隊の主力艦のことごとくは撃沈、自沈、捕獲されるという、当事者達でさえ信じがたい奇蹟が成立したのである。

いったいこれを勝利というようなあいまいな言葉で表現できるだろうか。
相手が、消滅してしまったのである。極東の海上権を制覇すべくロシア帝国の国力を挙げて押し寄せてきた大艦隊が、二十七日の日本海の煙霧と共に蒸発したように消えた。
----到底信じられない。
という態度を、同盟国である英国の新聞でさえとった。
バルッチク艦隊は全滅し、東郷艦隊は水雷艇三隻沈没という報が達した時、これを冷静に記事にしたのはただ一紙だけで、他の新聞は誤報ではないか、という態度をとった。
「日本海軍は自己の損害を隠蔽している」
と書いた新聞さえあった。
-----装甲艦が単なる砲戦によってそうたやすく沈むはずがない。
という疑問を提示した新聞もあった。むしろそれが専門家の常識であり、もし日本側の発表が真実であるなら彼らは潜航艇を使ったに違いないとも一部で論じられた。
もっとも装甲艦が演ずる近代戦の戦術についての著書のあるH・W・ウィルソンという英国の海軍研究家は、日露双方の発表によって事情が明快になったとき、
「なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このように完全な勝利というものを見た事がない」
と書き、さらに、
「この海戦は、白刃優勢の時代が既に終った事について歴史上の一新紀元を劃したというべきである。欧亜という相異なった人種のあいだに不平等が存在した時代は去った。将来は白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるを得なくなるだろう」
とし、この海戦が世界史を変えたことを指摘している。

『司馬遼太郎全集・坂の上の雲B』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ