〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/17 (水) 秋山 好古

沙河会戦後、日露両軍はにらみ合いの状況を続け冬営に入っている。
零下四十度まで下がる満州の冬は厳しい。
シベリア鉄道からの十分な補給がされないことには、積極的な行動を起こしたくなかったクロパトキンであったが、第二軍司令官のグリッペンベルグが主張する日本軍最左翼の手薄な部分への攻撃を許可する。
これは旅順要塞への救援措置とクロバトキン一流のペテルブルグへのパーフォーマンスが含まれていた。旅順要塞は一月一日に突如降伏してしまうのだが、グリッペンベルグ第二軍の攻撃計画は一月下旬に開始された。
ロシア軍は旅順から解放された乃木第三軍の襲来を恐れたのだった。クロバトキンはこのロシア第二軍にシベリア第一軍団と世界最強と謳われた騎兵集団ミチェンコ支隊を増強させた。
その攻撃目標とされる日本軍の最左翼には、秋山好古が率いる秋山支隊が位置していたのだった。

秋山好古は日本陸軍騎兵隊の創設者であり、 「日本の騎兵の父」 といわれる人物である。
好古は騎兵の最大の持ち味は機動力であり、優れた用兵家によってはじめてその効力が発揮できると考えていた。しかし、日本陸軍にはまだ騎兵を十分に理解して用兵に使うノウハウは構築されていなかった。というよりも騎兵隊の創設者が秋山好古であり、当時、彼以上に騎兵を理解している者は存在しなかっただろう。好古の騎兵隊はこれまで偵察・斥候や友軍の援護・警戒活動に従事させられていた。
その意味で本格的な騎兵の活躍の場を得られないことに忸怩たる思いにも駆られていたが、現実には 「世界最強」 といわれたロシアのコサック騎兵と正面から対決しては勝ち目がないことを好古自身が痛感していた。
これまでコサック騎兵との戦闘では下馬して迎え撃つという苦肉の選択を強いられていた。そうすることでしかコサック騎兵と五分で戦える方法論が見出せなかったわけだ。その際に絶大な効果を発揮したのが機関銃と有坂銃の威力であった。
秋山好古の騎兵第一旅団は、日露開戦の三ヵ月後に遼東半島に上陸すると奥第二軍の麾下に入り、徳利寺の戦いで活躍する。この頃から機関銃部隊を組み入れて、秋山支隊として独自の活動が可能になっていた。その機動力を生かして熊岳城を占領。鉄道通信網の破壊活動や戦略的撤退を繰り返すロシア軍の追撃に効果をあげていく。
秋山支隊は歩兵連隊と砲兵、工兵の各一個中隊を組み入れて北進を続けた。遼陽会戦の頃には更に強化されていき、一個騎兵師団規模の強力な戦闘集団となり、八月二十七日には四方台の占領に成功する。
この沙河会戦後の一月中旬頃、好古は冬営の膠着状態から水沼挺身隊や長谷川第二挺身隊、建川挺身斥候隊などを放ち、情報収集や破壊活動にロシア軍の喉元深くまで遠征させていた。
当然、好古の許にはロシア軍の不穏な動きが逐一報告されてくる。
「敵は近く大規模な作戦を起こす」
との報告は総司令部に送られるのだが、作戦参謀の松川敏胤はその情報を握り潰してしまう。こんな極寒の時期にロシア軍が行動を起こすわけがないという固定観念によるものだった。
ミチェンコ支隊の威力偵察は日増しに日本軍の後方を蹂躙していく。しかし、好古自身もその最大のターゲットが秋山支隊が警護する日本軍の包囲網最左翼であることを、このときはまだ気づいてはいない。
こうして、日露戦争における日本陸軍最大の危機とされる黒溝台の戦いが始まる。

秋山好古は司馬遼太郎の 『坂の上の雲』 の主人公の一人である。弟は海軍の天才作戦家・秋山真之であるが、貧しい下級武士の秋山家にとっての真之の養育は相当に負担だった。夜、両親が真之を寺に預けようと相談の最中に襖を開けて止めに入ったのが十歳の少年好古だった。
それはいけない、と訴える好古は 「ウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるぞな」 というのである。
お豆腐ほどのお金は別として、好古は陸軍に入った後、真之を引き取り東京の学校で教育を受けさせて、この約束を果たしている。最後の古武士といわれた秋山好古とはなんと優しい心根を持った人物だったのだろうか。この兄に真之は生涯頭が上がらなかったというのも頷ける。
好古が軍人の道に入ったのは授業料がなく、公費で生活が出来、いち早く独立できる、という理由に他ならないのだが、これは好古だけのことではなく、当時の多くの若者が軍隊を目指した理由と共通するものだろう。
秋山好古は騎兵隊秋山支隊を率いて日露戦争で抜群の活躍と貢献を残したが、そんな好古自身が自分が軍人に向いていたと感じていたかどうかは大きな謎である。
当人は軍人という生き方にはあまり興味はなかったようで、戦後、陸軍大将にまで登りつめながら予備役に編入されると故郷の松山で学校の校長になっている。好古自身は福沢諭吉の考えに共鳴していたようで、子供達をみな慶応に学ばせて軍人にはしていない。
好古は大酒飲みで戦場の傍らには常に酒の入った水筒が用意されていた。軍刀も指揮刀で、武器といえるようなものは身に付けていなかったが、この水筒だけは肌身離さず持ち歩いていたようだ。映画でも取り上げられた中国拳法の 「酔拳」 は、飲めば飲むほど、酔えば醉ほど強くなるという。好古も飲むほどに頭が冴えわたったのかもしれない。
どんな危険に陥っても取り乱すことなく、コサック騎兵の銃弾が飛び交う中でその水筒を高々とあおる姿は歴史小説に登場する英雄豪傑の姿を彷彿とさせる。
ところが、その名将の指揮ぶりとは裏腹に、戦争自体を嫌っていたという。酒でも飲んでいなければやってられないといった心境だったのだろう。
この辺り、乃木希典との対比には非常に興味深いものがある。
では、秋山好古と乃木希典との違いは何か。
好古は単純に生きようとしている。それは軍人になった以上、日本の敵国を倒すことのみを職分にする。というものだ。ただそれだけである。不器用といえばそれまでだが、大山巌が努力して己を 「空しく」 する訓練をしたのに対して、好古は二十代の頃から簡潔な生き方を達観していたようだ。
対して、乃木はこんなことを言っている。
「電車に乗っていると、座ろうと思って、そのつもりで鵜の目鷹の目で座席をねらって入ってくる。ところがそういう者は座れないで、ふらりと入って来た者が席を取ってしまう。これが世の中の運不運というものだ」 (司馬遼太郎 『腹を切ること』 より)
乃木は不器用ではありながらも幸運を願った。しかし、不遇であることは認めざるを得なかった。好古はもっと簡潔な生き方に終始していたのだろう。どんな絶望的な状況でも達観はするが、絶望はしない。
昭和五年に七十二歳で死去した。
その臨終の言葉は 「奉天へ・・・・・」 だった。

「ミチェンコの八日間」 といわれる威力偵察の嵐が日本軍の後方を蹂躙し続けている。その機動力ゆえに、正体と兵力は不明である。一万騎の南下行動であった。そしてミチェンコは日本の最左翼が紙のように薄いことを確認したのである。その報はクロパトキンに伝えられた。
クロパトキンはグリッペンベルグ第二軍に攻撃を命じた。その兵力は秋山支隊の実に六倍。
好古の警告は総司令部に何度も伝えられたが、総司令部はタカを括っていた。 「そんなはずがない」 と。
好古がロシア軍の一大圧力を実感したのは一月二十五日の夜明け前である。
総司令部が反応したのは同日の正午頃で立見尚文の第八師団を救援に向かわせたが、この師団は予備軍として前線の遥か後方に位置していた。
その頃、秋山支隊は雲霞の如く現れたロシア軍に呑み込まれようとしていたのだ。ロシア軍の攻撃目標は沈旦堡だったが、これを当初、好古は見抜けず金山屯を重視してしまい、沈旦堡の部下に金山屯への援軍を要請してしまう。
好古は自らの司令部を最右翼の李大人屯に置き、中央の韓山台に三岳支隊 (騎兵第十連隊・三岳於兎勝中佐) 、やや左翼の沈旦堡に豊辺支隊 (騎兵第十四連帯・豊辺新作大佐) 、左翼の黒溝台に種田支隊 (騎兵第五連隊・種田錠之助大佐) を配置していた。
好古が敵の攻撃目標が沈旦堡であると確信したのは翌二十六日のことである。
事の重大さに気づいた総司令部はハプニング状態に陥った。
このとき司令部の空気を冷静に戻したのが大山の 「今朝からだいぶ大筒が聞えるようですが、一体どこですか」 の場違いな声だった。
援軍の第八師団が到着するまで、秋山支隊はなんとしても死守しなければならない。
秋山支隊のなかでも、沈旦堡の豊辺支隊がもっとも激しい攻撃を受けていた。
隊長の豊辺新作大佐は好古が最も信頼していた部下である。豊辺の粘り強さを大きく認めていた。その豊辺自身も 「一個師団以下なら絶対撤退しない。一個師団以上でも三日は保たせる。三日保てばなんとかなる」 と言っていたという。
そして、豊辺の沈旦堡に殺到したロシア軍は一個師団を遥かに上回るものであったが、豊辺は孤軍で粘り続けるのであった。
ロシア側ではこの黒溝台の戦いを 「沈旦堡会戦」 という。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ