〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/01/17 (水) 秋山 真之

連合艦隊旗艦 「三笠」 の艦上で加藤友三郎が胃痛に苦しんでいるのを横目に、我、関せずとばかりにポケットの炒り豆をポリポリ口に運んでは海図を睨んでいる男がいる。
規律正しい海軍にあって、その枠を逸脱していた男の奇行を参謀長の島村や後任の加藤は、その都度取りなしているのだが当人はまったく頓着しない。
この五尺あまりの小男が、 『坂之上の雲』 の主人公の一人であり、日本海海戦の作戦を立案してバルッチク艦隊を完膚なきまでに殲滅した秋山真之である。
兄・好古は騎兵隊を指揮して南満州で戦っていた。兄が日本の騎兵隊を育て上げたように、弟の真之は海軍大学教官として連合艦隊の若い指揮官達に 「秋山流兵学」 をたたき込み、この日露戦争に臨んだのだった。

秋山真之は天才作戦家として今日まで語り継がれている。
この弱冠三十六歳の少佐 (旅順港外封鎖中に中佐に進級) が日本海軍の作戦主任参謀として、日露戦争の海軍の作戦のほとんどを立案した。
意外に思うかもしれないが、この天才作戦家は当初軍人でなく、文学を志していた。
秋山真之の生涯を俯瞰して見ると、大きく三つの岐路があるようだ。
その第一は、将来の進路を兄・好古に相談する時である。
好古の支援によって大学予備門 (現東大) に合格した真之は次第に、自分の将来に思い悩んでいった。というよりも、己の資質に疑問を抱くようになる。彼は試験のヤマ場を当てる才能があったのだが、同時にそれは学問を探求していくという姿勢とは異質なものであことを痛感していたようだ。どこか本気になれない客観的な自分を発見してしまったのだろう。
要領が良すぎるのだ。かといって、親友正岡子規同様に文学で身を立てるという甘美な憧れには、今ひとつ現実感をもてないでいた。また、このまま大学を卒業して役人になる自分の姿も想像しにくい。
真之はそのことを兄・好古に相談してみるのだが、好古はその問いに直接は答えず、好古自身の人生観を語る。それはこれ以上無いほどの簡潔なもので 「軍人として、いざ戦いの場合、敵国に勝たしめるのが職分だ。だから、いかにすれば勝つかを考える」、その一点に集約させたものが兄好古の人生であり、それ以外は余事であるという。この言葉が真之のモラトリアム期間にピリオットを打たせる。
真之は海軍兵学校へ進むのであった。
戦争が国家同士の喧嘩であれば、どのような工夫をすれば勝てるか。これが真之の肌に合ったようだ。
次第に頭角を現し海戦戦術に熱中していく。

海軍兵学校を首席で卒業すると日清戦争では少尉として 「筑紫」 に乗艦した。その後、海軍留学生五名に最年少で抜擢されている。これが第二の転機につながる。
留学先のアメリカで当時世界的海軍戦術家であったマハン大佐から直接薫陶を受ける。
このマハンから戦略戦術の研究とは教わるものではなく、古今東西の戦史から要領を掴み、独自の本領を養うことであることを助言され、それを実行していく。
真之の侠気に近い読書はここから始まった。これが、天才戦術家への道を決定づけることになる。己の才能を発揮する場と方法論を手に入れたわけだ。
真之の天賦の才とは、膨大な情報の処理能力である。その情報をただ収拾するのではなく、その目的に添って不要なものは切り捨て、集約させていく才能に優れていた。
目的とは仮想敵国であるロシアの海軍に勝つことである。
帰国した真之は日本の古来からの合戦や瀬戸内水軍の戦術なども大いに研究していった。
秋山以前の日本海軍は海軍戦術よりも国際法の研究が主流だったという。海戦戦術に関してはむしろ少数派であり、山屋他人や島村速雄などの研究がその先駆とされていた。言い換えれば、そのすべての海戦戦術を秋山真之が引き継いだ形となった。
その意味で先駆者の島村の 「作戦は天才が立てるもの」 という言葉には含蓄がある。
天才を生む要素とは先天的要素とは別に、その人物の置かれた環境も重要なのだろう。

アメリカ留学後の明治三十三年、常備艦隊参謀として当時の旗艦 「常盤」 に乗艦しているのだが、この時の司令長官は東郷平八郎、参謀長が島村速雄だった。奇しくも、日露戦争の連合艦隊司令長官と参謀長との顔合わせとなったわけである。
これが第三の転機となる。
東郷は一月あまりで移動になってしまうのだが、ここで真之ら若い参謀たちは、島村から 「参謀の心得」 というものを教えられる。それは若いエリート幕僚の陥りやすい奢りを指摘したもので、参謀はいかにして司令部と現場指揮官との意思統一を図るかというものであった。
この辺りの心配りは島村らしいところである。その規模と形態は異なるのだが、陸軍の総司令部と現場指揮官との不協和音を考えると海軍における島村の存在は矢張り大きい。
真之は海軍戦術の探求の意欲については並々ならぬものがあって、それが故に戦術的な不合理を許さない姿勢があった。同時に自信家でもあった。その真之が島村の深謀には驚嘆したようで、兄・好古同様に強く影響を受ける存在となる。
島村も真之の才を大いに認め、日露戦争で作戦主任参謀に抜擢する伏線となるのだが、同時に、その才能が鋭利であればあるほど、その運用に細心の注意が必要であることも見逃さなかった。
天才作戦家秋山真之は抜き身の刀であった。
その威力・切れ味は抜群であっても、扱いを誤まると我が身を損なう危険が秘められていた。
その使い手が東郷である。島村は参謀長として、この抜き身の名刀を納める鞘になろうと考えたようだ。
実際に日露戦争が始まり己の作戦が実戦の場で決行される時、真之はその現実にプレッシャーを感じてしまう。それを支えていったのが参謀長の島村であり、加藤友三郎だった。
天才作戦参謀は東郷という剣の達人と島村・加藤という鞘が三位一体になってはじめて誕生してことになる。

秋山真之を天才とするのは、その奇行にも原因するのかも知れない。時と場所を構わず放屁し、作戦立案に集中すると周りがまるで見えなくなるようで、司令長官の東郷もその服装や行動には眉をひそめてようだ。
この我が道を往く天才作戦家が、ある日を境に大いに迷ってしまう。
インド洋を横断してマラッカ海峡からシンガポールに出現したバルッチク艦隊が、五月十九日を最後にその消息がつかめなくなった。敵艦隊の目的地はウラジオストックである。しかし、その航路は、日本海航路の対馬海峡か、太平洋航路を選んで対馬海峡、若しくは宗谷海峡か。
ここまで数限りないシミレーッションを重ねてきた真之ではあったが、敵艦隊の進路に直前で迷いに迷ってしまう。
この問題は真之だけでなく、連合艦隊全員の迷いになっていた。当初、鎮海沖で対馬海峡に待機していたことで、その不安から反対方向の太平洋側に心理的な比重が移動したのだろうか、なんと、連合艦隊内部の大多数の意見が太平洋側に傾く状況に陥ってしまう。
岡目八目で海軍司令部では当初の予想通り日本海航路説に揺らぎはなかった。その訓電を送ることを海軍大臣山本権兵衛は頑なに止める。
「現場の判断は東郷に一任せよ」 というものだった。
このときの真之は不安の表情を隠せず、普段の彼とは別人のようだった。
真之はバルッチク艦隊を撃滅するために 「七段構えの戦術」 を考案していたが、作戦自体に熱中するのとは違い、敵艦隊がどこから来るかとなると思考による作業では結論に結び付けられなかったのだろう。
折りしも、旗艦 「三笠」 では対馬か太平洋かの折衷案として 「能登半島待機」 が大勢を占めようとする時、第二艦隊第二戦隊の島村速雄は参謀部で唯一対馬コースを主張する上村第二艦隊の参謀長藤井較一大佐を伴い、東郷一人が籠っている将官休憩室に向かった。
島村は静かに意を決すると対馬航路説を主張した。
それを聞いた東郷は島村と藤井と共に将官室じぇ行き、そこで改めて島村が対馬航路説を参謀たちの前で主張した。
「敵に海戦というものを知っている提督が一人でもいるならば、必ず、対馬を通る」
その島村速雄を室内の片隅で真之は見つめている。巨漢の島村が、今日この時ばかりは一層大きく感じられた。
島村の発言によって参謀部の雰囲気は一気に対馬コース説に傾くのである。
そして、東郷は静かに言った。
「では、ここで、待とうではないか」 と。

秋山真之は三十六歳の若さで主任参謀に抜擢され、日露戦争の作戦をほとんど一人で立案した。
彼に立場は陸軍の松川作戦参謀というより、児玉源太郎に近いだろう。一個人に国家の運命が託されるとき、思考の範疇を超える 「理外の理」 に直面して迷い、そして、祈るという非合理的な行動に至るようだ。
それまでの真之の 「作戦戦術」 の研究は 「真理の追究」 であった。そのために、異論異説には断固とした姿勢で臨んだ。これは自説を擁護するとかというものではない。真之にとって 「真理」 は一つでなければならなかった。
そんな真之を周囲は自信家と見ただろう。実際、真之は自信をもって日露戦争に臨んだ。
しかし、作戦が実戦で決行される現実の場に戸惑いを隠せない。己が 「抜き身の刀」 であることに一番の危惧を感じたのは真之ではないだろうか。彼は作戦かとは別にとぎすまされた感性の持ち主だった。
当然のことだが戦争は人間を傷つけ死に至らしめる。近代戦争でのその威力は凄まじい。
旅順港閉塞作戦でみせた彼の躊躇と不安はそこにある。それを励ましてくれた親友の広瀬はその作戦行動中に戦死してしまう。
真之は自分を取り巻く様々なプレッシャーを跳ね返そうとした。それは完璧な寸分の狂いのない作戦立案を生み出すことである。
日清戦争で本格的戦闘を経験していない真之にとって、旗艦 「三笠」 で目撃する戦場のあり様は彼の感性には相当堪えたのではないだろうか。天才作戦家は軍人としては未完成だったのかも知れない。それは真之だけでなく日露戦争に従軍している全ての兵士に共通したものであり、それを経験すればするほど疲弊していく。歴戦の勇者とされる東郷でさえも同じだろう。彼らは自らの精神力で己を保っている。
そこには天才も凡人もない。
あれほど悩んで不安な顔をしていた真之が敵艦隊発見の報を聞くと 「しめた、しめた」 とこ踊りしたという。
真之は合理的であろうとした。百人の犠牲が何千人の犠牲を救うのであると自分に言い聞かせた。こう考えると秋山真之の苦悩や戸惑いは日露海戦のいたるところに発見することができる。
そのポケットに炒り豆を詰め込み四六時中、戦いの最中でさえも口に運んでいたのも、悲鳴をあげそうな己の精神を必死に平常に保つためのものだったのかも知れない。
また、その隣に平然として指揮を執る司令長官東郷平八郎や参謀長の島村や加藤の存在も大きかったことだろう。 「俺はこの人のようになれるだろうか」 と。
この真之が日本海海戦の第二日目に戦闘能力を逸したネボガトフ艦隊への集中砲火に耐えきれず、
「武士の情けであります。発砲をやめてください」
と叫んでしまう。
しかし、東郷は戦時国際法に則って、
降伏の意思があるのならば、その艦を停止させなかればならない、敵はいまだ前進中である。」
と、毅然と答えるのであった。真之には言葉がない。
もっとも、秋山真之はこの日露戦争が終結すると天才作戦家の役割も終ってしまう。
五月三十日、日本海海戦を終え、佐世保に帰港した真之は捕獲された 「ベドウイ」 を見つめてボロボロ涙を流した。
秋山真之の日露戦争が終ったのだ。
文学を目指した真之の感性は戦争という現実から様々なものを観てしまったようだ。そこには人智を超越した天の干渉というものが存在するのかもしれない。
「天気晴朗ナレドモ浪高シ」
文学を目指した青年は軍人となり、その電文は名文として今日まで語り継がれている。

「日露戦争・明治人物列伝」 編著・明治 「時代と人物」 研究会 ヨ リ