〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/08 (木) 東郷の学んだカレッジ---テムズ河畔にて--- D 

秋山真之が策戦参謀した日本海海戦は世界的にはツシマ (対馬) 海戦よ言います。
対馬は日本海の西の関門になっている。日本海の一番奥にウラジオストックがあるわけです。そこまでの長い海域での戦争でした。ですから、日本側としては対馬で叩いて、その敵を昼間の海戦でヨタヨタにしておいて、だんだん夜になると落ち武者狩りを水雷艇にやらせるという計画でした。
その水雷艇は何段構えでどこそこに控えているというぐあいでした。水雷艇というのは、小さなボートで魚雷を抱えています。魚雷艇と考えてもいいかと思います。
バルチック艦隊が迫っているというときに、水雷艇の艇長だった水野広徳という若い士官は---松山出身です---後に、戦争は悲惨だというので生涯反戦論を唱えつづけたすばらしい軍人でした。対馬の湾に自分の水雷艇とともに潜みながら、李舜臣の霊に祈ったといいます。十六世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略のときは、日本にとって敵将でした。
一つの民族で名将を出すということは、---出さない民族もあるんですね。一つの民族でいろんな才能がありますでしょう。絵描きだとか小説家だとか、建築家だとか、学問の才能、そんなのが一時代に何人も出るんですけれども----名将という才能は一つの民族の長い歴史の中で二人か三人いれば多い方なんです。まして、海の名将というのは少なく、すくなくとも、日本海海戦までの日本史では一人も出してないわけです。
それが、豊臣秀吉の朝鮮侵略のとき、朝鮮で李舜臣という素晴らしい人が、当時のアドミラルとして非常に活躍する。朝鮮のことですから政情の複雑な所です。勝とねたまれて牢獄に入れられるんです。そしてまた日本の水軍がやって来ると、李舜臣は牢から出されて、日本の水軍をしばしば撃退する。ついに戦場で死ぬ。
当時、李舜臣という名前も韓国人は知らなかった。とっくの昔に忘れてしまっていた。李舜臣を発見したのは明治の日本海軍でした。その研究をやったのも明治の日本海軍でした。明治は模倣の時代であると同時に、さきに秋山の独創のくだりで申しましたように、過去の黒砂糖を精製して白砂糖にするとう営みを行った時代でもありました。
ですから、明治三十七、八年のころの日本海軍の士官は、李舜臣という名前を、学校で習い、本で読み、よく知っていたわけです。
で、李舜臣の霊に祈った、と当時、水雷艇の少尉だった人が書いています。同じ東洋人だから、ということだったのでしょう。もっとも昔は敵味方だから祈りを聞いてくれるかどうか知りませんが。
まあ、結果は秋山真之作戦通りになったわけです。バルチック艦隊は三十八隻中、十九隻が沈没し、五隻が捕獲、病院船二隻が抑留、残る十二隻は逃走したものの、中立港湾で武装解除され、司令長官以下六千人が捕虜になりました。日本側では水雷艇三隻を失っただけでした。
私は社会主義者でも何でもありません。一つの民族---社会といってもいいのですが---が、いろいろな経験をへて、理想に近い社会をつくろうとする。そういう向日性があります。日本社会も理想の社会をつくりたい。その理想の社会は、兵隊が威張らない社会、兵隊がひっそりしている社会、そして福祉が行き届いた社会、誰でもその社会に参加したいと外国人が思う社会。それは例えば一時代のイギリスでした。そしてまた、1950年代、60年代のアメリカでした。そういう社会を日本人も築きたいと思っているけれども、自分の過去に対して沈黙する必要はない。よくやった過去というのは、密かにいい曲を夜中に楽しむように楽しめばいいんで、日本海海戦をよくやったといって褒めたからといって軍国主義だというのは非常に小児病的なことです。
私は彼らは本当によくやったと思うのです。彼らがそのようにやらなかったら私の名前はナントカスキーになっているでしょう。
私は、 「坂の上の雲」 で日本海海戦を書きましてちょっと苦しみましたのは、日々変化する細部の事でした。
たとえば、この軍艦は何日何時にどこにいたといったようなことです。軍艦は動いています。それが一つ間違うと何の意味もありませんし、しかしそれを間違えないように書いたところでそれは文学的な価値とは関係がないのです。労多くして功の少ない作業でした。
やっかいなことは、敵のロジェストウェンスキーという司令官が乗っている旗艦 「スワロフ」 の最期についてでした。
それが舵を砲撃され壊されて、艦体にも何発か弾を受けて煙が上がっている。舵を壊されているものですから、グルグル同じ場所で回りはじめた。
ところが後続している軍艦で 「アレクサンドル三世」 という 「スワロフ」 そっくりの軍艦がありました。
で、あれは 「スワロフ」 は、あるいは 「アレクサンドル三世」 なのか、 「三笠」 のブリッジから見てもよくわからなかったらしいんです。
東郷さんもよくわからなかった。東郷さんはツァイスの八倍の双眼鏡を持っていました。みんな他の士官は二倍の望遠鏡でした。
ついでながら、当時、英国でもフランスでも、海軍士官は二倍の望遠鏡をちょっと小脇に抱えて甲板を歩くというのが一番イキな姿だったといわれています。
東郷さんは、銀座でツァイスの八倍のドイツ製の双眼鏡を買って・・・・・日本には一つか二つ来ていたらしいんです。
「閣下、いまのは何ですか」 と幕僚が聞くと 「よくわからない。アレクサンドル三世かな」 というようなことで、いまだにわかっていません。 「スワロフ」 も 「アレクサンドル三世」 も沈んでしまったものですから。
何にしても、僕は 「スワロフ」 であると勝手に決めたのが 『坂の上の雲』 を書く上での自分に対する規律を破った事になりました。
秋山が “黒砂糖” から発見した戦術は、先ず我が力をあげて敵の旗艦を破ることでした。古い水軍の戦法なのです。ですから、黒煙を上げてグルグルまわっているのが旗艦なのか後続艦なのかが、東郷たちの気になるところだったのです。
秋山が導き出した “白砂糖” は、もう二つあります。
「わが全力をあげて敵の分力に乗ずること」 それと 「常に敵を掩うように運動すること」。
後者が有名なT字型展開になりました。遭遇するにあたって東郷艦隊がT字を取り始めたとき、 「スワロフ」 の艦上の一参謀は “しめた” と思ったといわれているが、それほど法則から離れた、異常な艦隊展開でした。

さて、東郷さんの出た商船学校のことに話を戻します。
まことに、小さくささやかな学校でした。十五、六歳の娘さんが、ボートをロープで引き上げていましたが、 “ゆくゆくは船のコックになるんだ” といっていました。たいていの女子在学生は、コック志望のようでした。
この学校を十九世紀に引き戻しても、とても海軍士官を養成する内容ではなさそうですね。
そういう学校に極東の無名の国の青年が、年を十歳もごまかして入学し、捨て鉢にならず、規律で最高点をとっていたことを思うと、胸の痛むような思いがしました。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ