〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/07 (水) 東郷の学んだカレッジ---テムズ河畔にて--- C 

さて、日露戦争の事でです。東郷は当時、舞鶴かどこかのヒマな鎮守府司令官として、ここで定年を待っているだけの存在でした。
その東郷がにわかに連合艦隊司令長官に抜擢される、というのは誰もが想像しなかったところでした。山本権兵衛の選択でした。
話のはじめに出てきた日高壮之丞というのが当時海軍中将でした。当然俺がなると思ってたのに、山本め、俺を裏切ったというんで、海軍司令部へ乗り込んで山本の部屋へ行って---短刀をのんで----山本の返答の仕方によっては刺し違えるつもりでした。
こういうところが当時の薩摩の人間にはあったんです。ねじ込んできた日高に対し、山本権兵衛の答えは明快でした。
今度の戦争は、君のような者の出番ではない。君は勇敢で強引で何でも自分勝手にしようとして、しばしば東京の命令を聞かない。今度の戦争は東京の命令を聞いてくれなきゃ困るんだ。それには東郷がおとなしくていい。
さらに山本は、東郷というのは運がいいんだとも言い添えました。バクチは、運のいい人間に打たせなければいけません。日高は了解して朗らかに明るく引っ込んだといいます。
東郷と秋山とがそれまで知り合いだったかどうか。
東郷の側では初対面だったとみていい傍証がいろいろあります。
東郷が連合艦隊司令長官になった段階では、東郷の下に、土佐出身の島村速雄という、ちゃんとした兵学校出のキャリアを持った参謀長 (少将) がいました。第二艦隊第二戦闘隊の司令官です。大胆で有能で緻密な頭と大きな総合的な判断力とを持った人で、この島村が東郷さんに、
「私のスッタフに秋山真之というのがいます。すごい男ですが、ただ行儀が悪いんです。ひょっとすると起きるべき時間に起きてこないかもしれないし、敬礼もうっかり忘れるかもしれません。それを大目に見て下さいませんか」
と耳打ちした。
東郷さんは行儀のいい人ですから、他人の行儀に対しても関心があったと思うんです。
「いいよ」 と言って秋山を策戦参謀に起用したわけです。無論大筋は山本権兵衛の配慮でした。ここで出来上がった関係であって、そして、日本海海戦の全策戦が三十四歳の秋山に任されたわけです。

統率者としての東郷さん自身、自分の役目は、艦橋に立ち尽くして死ぬことだと思っていたでしょう。
私は、二十余年前、横須賀に係留されている 「三笠」 (艦隊旗艦となった) を訪ねて、ブリッジに上がったことがあります。ブリッジっていうのは、じつに高い。軍艦のマストの真ん中ぐらいに畳二畳敷か三畳敷ぐらいの小さな板敷の、鳥が巣をかけたようにしてある場所ですね。そこに司令長官がイザという時に立ちます。立ってもすぐに下りて来るものなんです。司令長官というものは、そのように弾がどんどん飛んでくる場所にいるべきものではないということが、どこの海軍にもありますから。
ところが、統合さんは、長い海戦中、そこから微動だにしなかったというのは、自分の役割をそのように決めていたということでしょう。
当時の連合艦隊とバルチック艦隊のお互いに射ち合いを始める距離というのは、正確には忘れましたが、だいたい六、七千メートルとかそんなもんでしょう。海の六、七千メートルというのは、相手がじつに目近に見える。向こうの顔さえ見えそうな近さから打ち出される大砲の弾というのは人間に生物的な恐怖を与えます。
また軍艦というのはゆらゆら揺れていて、われわれシロウトだと高所恐怖症になりそうです。
海戦中は至近弾がずいぶん 「三笠」 のまわるに落ちました。落ちるたびにデッカイ水柱が立ちます。その水が艦橋に落ちてきたり、しぶきを上げたりして、雨の中にいるようなものだったでしょう。
東郷さん、全然動かなかった証拠に、終ったあと、彼が下りて行った時に白い靴跡が残っていたそうです。だから、そこで死ぬつもりだったんでしょうね。
艦橋で旗のようにして立つ東郷と頭脳の秋山、部署々々で働く人々といった役割分担がうまく行っている。
日本人が持っている組織の力学といったようなものの一つの典型をなしたような感じがします。もっとも、このマネを太平洋戦争でもやって、型は破綻しました。基礎設計者の山本権兵衛を得ず、東郷を得ず、秋山を得ずして型だけマネしても仕方ない事です。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ