〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/05 (月) 東郷の学んだカレッジ---テムズ河畔にて--- B 

先ほど、日本海海峡の話が少し出ましたが、戦争の後半でバルッチク艦隊がやって来る。これに負ければ日本はロシアの植民地に、これははっきりなったでしょう。
海戦で負ければ、いわゆる満州の戦場にいる陸軍は、全部根が絶え、枯れていくだけです。そして、中途半端に勝ってもロシアの軍艦はウラジオストックに潜り込んで、そこから出て来ては日本海を通商破壊すると、陸軍は補給を受けられなくなる。ですから、やって来るバルッチク艦隊は一隻残らず沈めよ、というのが東郷に課せられた大命題でした。
こんなナカなことはないんで、戦争ですから、よく行って六分四分、ネルソンの場合だってそうでした。ともかく一隻残らず静めよという絶対命題は、異様なことでした。
山本権兵衛はすでに秋山真之に目をつけてました。
彼は十代の後半に東京大学の予備門に入った松山出身の若い士族でした。好古という兄が陸軍にいまして、まだ尉官ですからしの給料から弟の予備門の学費を出すのはつらかったようです。
それに、好古は、弟の真之が予備門の途中で文学づいて、正岡子規とお団子みたいになってくっついているのがやりきれなかったようですね。
この兄は、いつの間にか、真之を大学予備門からもぎとって、築地の海軍兵学校へ入れた。
そのときに、子規が帰ってくると、下宿の机の上に、君とは、共に文学をやろうと約束したのだが、自分は他の道を進まざるを得なくなった。これでもう生涯会うことはないだろう、という真之の置手紙があったといいますね。
ともかくも秋山は海軍に入ります。大尉ぐらいの時にアメリカのワシントンの日本公使官付きの武官になっていくわけですが、この時の任務は、おそらく海軍事情視察だったろうと思うんです。
ちょうどアメリカはスペインと戦争していて、それを観戦した。艦船の出し入れや、どういうものを積んでいくのか、日本人としては色々な事を知りたかったのです。
また、フィラデルフィアの造船所では、日本が注文した軍艦がドックにのっています。驚いたことに、ロシアが注文した艦も、同じ造船所の船台に乗っていました。
それやこらやを見たり感じたりして来いというのが内密の任務だったろうと思うんです。
それにアメリカ海軍には、マハンという戦略家がいました。当時、退役だったとおもうんですけれど、海軍戦略の研究家でした。
だいたい、世界的に有名な海戦が古くからありましたが、いずれも軍艦同士の叩き合いであって、全体としての戦略や戦術というものはなかったんです。 海軍に戦術なし。軍艦の叩き合い。
しかし、秋山に密かに与えられている命題から言えば、軍艦の叩き合いではどうにもならない。
つまり各個に相撲を取るようなものですから、勝敗は半々でしかない。ロシアの生残った半分はウラジオストックへ逃げ込んで、さっきも申し上げたような恐るべき結果になるはずです。
戦術。戦史にないそういうものを開発して、なんとかロシア軍艦を日本海に沈めてしまわないと、これはどうにもならない。
秋山に課せられていたのは、それでした。滞米時代から、数年後の日本海海戦で最後のロシア軍艦が沈むまでの間・・・・・普通の人ならノイローゼになるでしょうね。

さて秋山はマハンを訪ねました。どうも双方あまり呼吸が合ったような様子ではなかったらしい。
ところでアメリカといえば、今は大した国ですけれも、明治三十年 (1897) 年ごろは、まだ大英帝国とポンドの時代で、アメリカといえば国全体が成り上がり者でした。
産業と商業と金融とが (むろんドルは世界通貨じゃありません。ポンドが世界通貨の頃です) まだ荒っぽく沸騰しているだけの状態の国でした。
それに、当時のアメリカは戦争好きなくにじゃなかった。けれど、ヒョンなことで戦争をやったのが、米西戦争でした。これはどうも、アメリカ人はどう言うか知りませんが、やっぱり侵略的な、多分に弱り目のスペインにもう一打撃与えてフィリピンの一つも取ってやろうということや、南米に対する発言権を確立しておこうというところなどがあったんでしょう。
まあそれは余談です。
とにかく、アメリカ海軍のやり方は、基本的にはイギリス海軍のやり方から出たものなんですけれども、アメリカらしく素人が考えた合理主義やアイディアをどんどん出していくところがあって、秋山が見てもずいぶん違った海軍になっている。
たとえば、いろんな軍艦が、順を追って出て行くわけですが、その軍艦の名前は何だといって、その名称は小さく書いてあるだけですからよくわからない。それをデッカイ数字で番号を打って他から識別しやすくする。今何という軍艦が出て行った、二番が出て行った、五番が出て行った、七番がいま準備しているとか、無論固有名詞はついているんですけれども、そのようにすると、水兵から仕官の偉い人まで、その軍艦の出て行く姿が見やすくなる。
いわば英国風の名人芸というものを否定して、誰でも参加できる考えで海軍をつくっている。
そういうことは秋山のものの考え方をずいぶん刺激するところがあったろうと思います。
日本の海軍は築地の兵学寮時代、英国から招いたダグラス少佐が種をまいて育ったものです。ダグラスの任期は二年でしかありませんでしたが、その影響力はじつによく、そのまま秋山らに引き継がれています。つまり日本海軍は英国式でした。
しかし戦術に限っては、秋山は英国式であることを想念の中でやめました。
彼はアメリカ滞在中なのか滞在を終わって東京へ帰ってからなのか、小笠原さんという子爵の家 (これはもとのお大名です) に瀬戸内海の能島水軍の戦術書がありまして、その和綴じの本を借りてきて丹念に読んでいた。
丹念に読んでいますと、それを同僚の海軍士官が笑いまして、
「そんな古ぼけた本を読んでいるのか」 と言った。
秋山は 「いや、白砂糖というものは黒砂糖から作られるものなんだ」 と答えたと言います。
これは、秋山のアメリカでの収穫でしょう。物の考え方は自分を自由にするしかないということを彼の地で勃興する諸事情を見て得たのだと思います。言葉を換えますと、全ての物事をつくるのには型を磨くといった名人芸は必要ない、何か自分で考えついた・・・・、つまり、どんなものだって、発想の種になるというか、自分がモノを考える場合、瀬戸内海の古くさい水軍だって自分に向かって素晴らしい発信をしているかもしれない、ということでしょう。
もし秋山が、イギリス海軍の先例にのみ学び、例えばイギリス海軍がやったようなネルソン提督の例とかいろいろなものを学ぶだけで終始していたら、日本海海戦はああいうかたちにはならなかったでしょう。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ