〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/02 (金) 東郷の学んだカレッジ---テムズ河畔にて--- A 

当時、日本海軍のオーナーというべき存在だった山本権兵衛が、東郷は運のいい奴なんだといっています。日露戦争の時、彼を連合艦隊司令長官に選んだのは、それが理由だったそうです。賭けについた男という意味でしょう。
まず武運に恵まれていた。たとえば、戊辰戦争の期間、重要な海戦には常に彼がいました。たとえば阿波沖で彼の乗っている薩摩の 「春日」 という軍艦が、幕府の 「開陽」 と遭遇しまして、これはとてもじゃないけど、 「開陽」 の敵じゃありませんが、そこで海戦があって、お互い交戦しながら引き分けになりました。その現場にもいたというのが、武運です。そして、 「春日」 は生き残っている。ついていたわけです。
それから、戊辰戦争のたけなわになると、旧幕府の榎本艦隊が箱館まで行きます。彼らは戦力があり、士気も盛んでした。政府軍の軍艦が宮古島に集結した時に、旧幕側は夜中に襲撃します。
「回天」 という幕府の軍艦が一隻で殴り込みのようにして襲撃してきたのです。
その時も、東郷さんは現場にいました。
さらには箱館戦争もむろんちゃんと勤めて、そして帰ってくる。
戊辰戦争が終ると、全員が解散です。
だから、身の立つように、どうにかしなきゃいけない。たとえば山本権兵衛の場合、戊辰戦争は陸軍で行って、たしか藩の下士官のような仕事をしていました。
東京で解散した時、山本が、日高壮之丞という友人と相談して、相撲取りになろうと思い立ちました。二人で “陣幕” という薩摩藩お抱えの力士の所へ行く。陣幕というのは、いま、井筒部屋に陣岳という相撲取りがいますね、あれは薩摩出身の親方、もと鶴ヶ嶺が興した部屋ですから、おそらく陣幕のイメージで陣岳とシコ名がつけられたんだろうと思うんですけど・・・・・。 ともかく当時は有名なお相撲さんでした。
そのお相撲さんのところへ行って、 「相撲取りになりたいんですが」 といいました。サムライが相撲取りになるっていうのは、とっぽどの思い余っての事でしょう。
思えば、戊辰戦争というのは、勝った方にとっても放ったらかしだったんですね。
ところが、陣幕に断られました。
「あなたたちは話を聞いていると、ずいぶん頭の働きがいい。この道はあまり頭の働きのいい奴は、頭の良し悪しという意味じゃありませんよ。頭の反射の早い人間というのは相撲ではあまり成功しない。諦めて他の仕事を探しなさい」
ということだったそうです。
幸い、海軍兵学寮が築地にできると言う話を聞いて、そこへ入るんです。
山本権兵衛は近代海軍の創設者で、この人がいなければ日露戦争はどうなっていたかわかりません。

東郷さんの場合、戊辰戦争が終った時、薩摩藩の三等士官でした。
幸い、新政府の海軍に横滑りして、なんとか最下級の士官にありついたんですけれども、やっぱり留学したかったようですね。小柄で、顔立ちのいい青年でした。ただ、どこのに取り柄があるのか分り難い人でした。
以下は、いつの時期の話か知りませんですけれど、明治政権は明治十一年まで、ある意味では大久保利通の政権といっていいんですが、彼のところにはサロンのようなものがありまして、薩摩の青年達が大久保さんの話を聞いたり、座談をしていたと想像してください。
「近頃国 (薩摩) の者でおもしろそうなのがいないか」
と、大久保が一座のものに聞きました。誰かが、
「東郷平八郎という者がおもしろそうですが」
というと、
「平八郎なら、俺は知っちょる」
知っているのは当たり前です。大久保の生家と東郷の生家は近所同士でしたから。
ついで大久保は、
「ああしゃべっちゃね」
と、苦りきった顔をしたそうですね。後年、東郷は無口なことで有名で、サイレント・ネーヴィの象徴のように言われたんですけれども、おしゃべりだったとは以外ですね。
おそらく、これが回りまわって東郷さんの耳に入ったと思うんです。東郷さんがしゃべらなくなったのは、それからじゃないかとおもうんですけどね。
何にしてもうまく英国行きの話があって、東京で、江戸時代から有名だった箕作阮甫 (みつくりげんぽ) さんという人の所に行って英語を少し学んで、そして英国へ行って、七、八年 (1871〜78) 英国に留学しました。その期間の真ん中の二年が “Marchant Navy College” の在学期間でした。その前後やっぱり英語を身に付けるために普通の学校に行ったり、数学や他の学問を身につけるために個人教授を受けたりしました。
ともかく東郷さんは二十六歳といういわば高齢でマーチャント・ネーヴィ・カレッチに入ったんです。
在校生には十四、五歳の子供もいるんですから二十六歳になったおじさんが、子供のような人たちと一緒の動作をして (子供にはかないません) 一緒に学んだんです。子供の陽気さ、子供のお茶目、全部いいオトナがついていけるはずがない。近代国家を成立させるというのは、大変ですね。
言葉の込み入ったことになるとわからないし、それから、他の少年達の冗談が分らなかったろう。しかも、一人の少年は東郷さんをいじめまして、ジョニーとか、チャイナマンとかいって、からかいました。
ついでながら、当時、ジャップという蔑称はまだ一般に作られてなかったと思います。代わりにジャニー。
ジャニーというのは、幕末の文久年間に伊藤博文と井上多聞と呼ばれていた井上馨とが、ジャーディン・マセソン商会の船でこっそり藩の命令で密出国してイギリスに留学する時、汽船の中で水夫の仕事をさせられりんですね。そのときに、ジャニー、ジャニーと呼ばれたといいます。蔑称です。東郷さんはそれよりちょっと後なんですけど、ジャニーじゃなくてジョニーといわれたといいますな。
何にしても、この考課表を見て 「アビリティ・グッド」 と記されているのが印象的でした。才能はまあまあということでしょう。
一方、行儀の良さとか注意力は満点でした。このあたり、東郷さんの全体が感じさせられるようで、おもしろいですね。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ