〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
2007/03/01 (木) 東郷の学んだカレッジ---テムズ河畔にて--- @ 

ロンドンの冬は雲が厚くて、スリガラスの下にいるようです。冬の曇天といっても、日本の北陸の雲のように、いつ大雪になるかわからないという活発なものではなく、すべての景色を銅版画のように静かなものに変えてしまうだけのように思われます。そのなかを、テムズ川が、黒ずんだ鋼色の水をたたえて流れています。
昨日 (1988年十二月五日) その下流の岸辺にある小さな学校を訪ねたのです。職業学校です。
“Marchant Navy College” (商船学校) です。この学校に東郷平八郎が、1873 (明治六) 年に留学していたのです。訪ねてみてその規模の小ささに拍子抜けする思いでした。
私は、日本の東京商船大学とか神戸商船大学を想像していたのですが、どちらかというと、海員養成所といった感じでした。
明治国家の希望を担う国費留学生が、こんな所で訓練されたのかと思って、不思議な思いが致しました。
初老の校長先生にお会いしたとき、学校への第一印象が消えました。潮風で知性を磨き上げたといった堂々たるオールド・ネーヴィでした。
東郷のことで来たというと、大変歓迎してくださって、図書主任のボルトンさんという女性の先生を紹介してくださいました。 おかげで当時の考課表 「レジスター・オブ・ボーイズ」 (Register of Boys) という生徒達の記録を見せて貰う事ができました。教会の聖書のように重々しくて古めかしい、そして当時の校長先生の筆跡がそのまま残っている文献でした。
そこに 「TOGO Hehatchi」 、[Date of Birth] [14th Oct 1857] と書かれていました。このことで、明治六年にここに入学した東郷が、実際の年齢の二十六さいより十歳若く登録していたという意外な事が分りました。じつに感動的なことでした。
といいますのは、商船学校の入学者というものは、だいたい十六歳から十八歳ぐらいだったようですね。本当は、昔から、英国の海軍にしても、商船にしても、オフィサーの候補者というのは十四、五から船に乗せるのが一番いいとされていました。船の色々な業務に必要な注意力その他を養成するには、二十歳を過ぎると矢張り無理らしいですね。だから、こういう学校は、少年を採用するのです。

東郷は、もういい齢でした。ところで、日本人は本来なら、日本のオフィシャルな政府派遣ですから、ダートマス (Dartmouth) の海軍兵学校へ行くべきところでしたし、日本政府はそのように希望しました。しかし外国人は、ロイヤル・ネーヴィの奥座敷には入れてもらえなかったのです。 そんな訳で、東郷はツテを頼って、それに代わるべきものとして、この “Marchant Navy College” に入ったのです。
この学校について述べます。学校は、ロンドンから車で一時間ちょっとで、ダートフォード (Dartfotd) という町を通過してほどなく、テムズ河畔のグリーンハイス (Greenhithe) といい、ろくに村もない所にあるのです。古びてしまって窓ガラスも何もない村の修道院がそばにあって、これは東郷さんは見たでしょう。学校の校舎は、これは東郷さんの時代とずいぶん変わったようで、いまはコンクリート造りの平屋建てになっています。
英国の商船学校の場合、本来は船そのものが学校でした。
そのために、ウースター号 (Worcester) が岸辺に係留されていました。東郷さんは初代ウースター号のときに、この学校にいました。
船も代がわりしてゆきました。ウースター号は二代目、三代目と続いて、その三代目がスクラップにされて、四代目はもう存在しないのです。
じつは、この学校は廃校になるらしいんです。サッチャーさんの教育合理化の方針で、予算が窮屈になっていると聞きました。海運業の全体的な衰退とも、かかわることかも知れませんが・・・・。
事実、この学校の在校生を見ますと、英国人は女の子がわりあい多く、そして東南アジアの人とかインドの人とかアフリカの人が入っていて、みんな、あどけない顔して勉強してるんです。ただし、東郷さんのころは、どうも外国人は東郷さんだけだったような感じがします。

船乗りというのは、もはや、世界的に見て先進国 (いい言葉ではないんですけど) と呼ばれる国々の人々は船乗りにならない傾向にあるようですね。むしろ、開発途上国の人が船乗りになる。
かって帆船時代は、船は手間のかかるものでした。船の乗組員は、たとえば客船の場合でも、お客と同じくらいの人数が必要だったといわれています。それが、今は五、六人で何万トンというタンカーを動かす時代になってしまいました。ですからもう、船を操縦するというシステムまで変わってしまって、それやこれやで、この訓練学校も、もう終わるのかと思うと、学校の粗末な桟橋の上で、寂しさを覚えました。
校長室に案内され、ウースター号の初代、二代目、三代目の写真を見せてもらった時、恋人の古い写真を見るような切ない思いを持ちました。
東郷さんがこの学校で乗った初代ウースター号は、むろん帆船でした。甲板上に古めかしい大砲があって、真中の・・・・・つまり、帆船時代の商船というのはおなかから大砲を何十門もギュッとだしますね。右舷何十門、左舷何十門、砲甲板が二段になってまして、なかなか沢山大砲を積んでいるんです。
しかし商船です。大砲というものも海賊おどしの古い形式のものです。海軍士官が養成されるべき船じゃないですね。 東郷さんの好きな学科は、国際法でした。また海の貿易に関する商法に興味を持ったようでした。いずれも、軍人が興味を持つような学科じゃなくて、この点、人間研究の上で興味がありますね。
当時東郷さんというのは草創期の日本海軍でも最下級の士官でした。少尉の見習でした。二十七歳になってもまだそんな低い身分で、どこか間が悪くて人よりも出世が遅かったらしいことなどが、むしろこの人らしさを感じさせます。

考課表 「レジスター・オブ・ボーイズ」 を見ますと、彼に対する校長先生の評価がなかなかいいんですね。
その中で、お行儀とか、品行、注意力といったものはベリーグッドでした。 「V.Good」 と記されている。これは相当な評価ですね。ただ、才能 「Ability」 ということになると、単に 「Good」 でした。
当時の校長先生が、世界の東郷になったとき、在学中を思い出して、 「東郷はすばらしい青年だった。在学中は彼をいじめようとする者が一人二人いたけれども、やがて彼をいじめなくなった」 と語っています。
いじめを引っ込めさせたのは、東郷の気迫だったのでしょう。気迫というのは、あの人は本当に薩摩隼人というのは少年期に養われたものでしょう。
薩摩隼人というのは生に存在するものじゃなくて、薩摩国では 「兵児」 と言いますが、訓練されて 「兵児」 になるのです。
幼少の時から訓練を重ねて一人前の 「兵児」 になる。
彼は鍛冶屋町という、薩摩の城下としては場末のいわばサムライ団地に生まれました。
八十戸ばかりの区画の中の一区画として東郷家があって、別の区画として大久保利通の大久保家があって、さらに大山巌の大山家があって、そしいぇまた西郷隆盛の西郷家があった。
彼は西郷隆盛の弟さんにお習字を習ったりして大きくなっていって、そして、戊辰戦争に出てゆくわけですね。

『司馬遼太郎全集・「明治」 という国家』 著・司馬 遼太郎 発行所・文芸春秋 ヨ リ