〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/06/16 (火) 「人 間 の 証 明 」 より

母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
ええ、夏碓氷 から霧積へ行く道で、
渓谷へ落としたあの 麦稈帽子 ですよ

母 さん、あれは好きな帽子でしたよ。
僕 はあのとき、ずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風 が吹いてきたもんだから。

母 さん、あのとき向ふから
  若い薬売りが来ましたつけね。
紺の脚絆に手甲をした ──
そして拾はうとして
   ずいぶん骨折つてくれましたつけね。
だけどたうたうだめだった。
なにしろ深い谿で、
それに草が背丈ぐらゐ伸びていたんですも の。

母さん、ほんとにあの帽子どうなつたでせう?
そのとき傍で咲いてゐた車百合の花は、
もうとうに枯れちやつたでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ
あの帽子の下で
   毎晩きりぎりすが啼いたかもしれませんよ

母さん、そしてきっと今ごろは ──
今夜あたりは、あの谿間に、
   静かに雪が降りつもつてゐりでせう
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いたY・Sといふ頭文字を
埋めるやうに、靜に 寂しく ──
                   (西条 八十)