〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/22 (金) 大村 益次郎 (二)

彰義隊の上野籠城を一日で壊滅

明治元年 (1868) 四月、大村は長州藩の藩兵 (官軍) と共に江戸に入った。
江戸では城の無血開城が行われ、とりあえず市街戦の危険は去った。しかし、薩摩の 「御用盗 (ゴヨウトウ) 作戦」 で治安は乱れていたので、大村は江戸府判事としてその回復につとめた。
ところが、ここで大事件が起こった。
彰義隊の上野籠城である。
これまで何度も述べたように、幕臣の一部には徳川慶喜の恭順策に反対した抗戦派がいた。海では榎本武揚が海軍を率いて北へ去ったが、ここで旗本の抗戦派は彰義隊を結成した。正確に言うと、彰義隊は初め慶喜側近の渋沢成一郎が頭取となり、江戸の治安回復につとめた、 「新見廻組」 のようなものだったが、慶喜の退隠に従がって渋沢が身を引くと抗戦派の天野 (アマノ) 八郎が実権を握り、官軍へ反旗をひるがえしたのである。
上野にこもったのは、江戸の鬼門 (東北) 守護の寺である寛永寺が城構えだったことと、輪王寺宮法親王 (リンノウジノミヤホツシンノウ) (出家した親王) がいたからだろう。輪王寺とは日光東照宮の別当寺 (神社に付属する寺) で、江戸時代は京都から招かれた親王が輪王寺と寛永寺の住職を兼ねる習わしになっていた。
そういうこともあって彰義隊は法親王を擁する形となり、逆に官軍側は彰義隊攻撃をためらった。
上野は要害の地であり、万一鎮圧が長引くと全国に反薩長の火の手が燃え上がらないとも限らない。官軍は軍議を開いたが、薩摩出身の参謀海江田伝義 (カイエダノブヨシ) は慎重論を唱えた。ところがここで大村は反対した。新政府のお膝元で彰義隊を放っておけば、官軍の威信にかかわる。断固討伐すべきだし、やる気になれば一日で討伐できるというのである。海江田は怒った。薩摩の沽券にかかわるということもあったが、最大の理由は海江田が洋学ギライの攘夷論者であり、 「医者の息子に何が出来るか」 と内心軽蔑していたからだ。しかし同じ薩摩でも西郷隆盛は大村の力量を知っていた。そこですべてを任せた。大村は、親兵器のアームストロング砲を有効に用い、本当に一日で上野を落としてしまった。大村の盛名はますます上がり海江田は大恥を掻いた。
大村はその功が認められ、日本の近代軍制の創始者となったが、翌明治二年 (1869) 九月 京都視察中に、尊攘派の浪士に教われ暗殺された。佐久間象山や横井小楠などと同じく、外国ギライの攘夷論者のエジキになったのだ。犯人は当然死刑を宣告されたが、この死刑執行に 「待った」 をかけたのが海江田であった。結局、執行はされたが海江田はよほど犯人たちに 「共感」 を抱いていたらしい。大村が死に際して 「大砲を沢山造っておけよ」 と遺言したのは有名である。
はたして明治十年 (1877) 西南戦争が起こった。大村の 「大砲」 により鎮定された 「賊軍」 の大将は西郷隆盛だったが、その西郷は上野の山に大村は靖国神社境内に 「護国の神」 として今も銅像になっている。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ