〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/22 (金) 大村 益次郎 (一)

他藩に才を見出された 「売れない医者」

初名を村田蔵六 (ゾウロク) という。
周防国 (スオウノクニ) 吉敷 (ヨシシキ) 郡銭寺 (ゼンジ) 村の町医者の家に生まれた。周防国 (防洲) は長門国 (ナガトノクニ) (長州) と共に山口県を形成しており、昔はこれが長州藩の領地だったから、蔵六も 「長州出身」 ということになる。よく錯覚している人がいるが、長州藩毛利家は防長二州の領主である。
蔵六は家業を継いで医者になることが定められていた。幸運だったのは当時天下一だった大坂の蘭学塾、緒方洪庵の適塾に留学を許されたことだろう。蔵六はここでめきめきと頭角を現し、たちまち塾頭となった。
翌年、その経歴を土産に故郷へ帰り、医者として開業したが、まったく流行らなかったという。
現代に残された写真を見てもわかるとおり、蔵六は極めて特異な風貌をしている。 「火吹ダルマ」 の異名があったという。そのうえ、ずけずけと物を言う性格だった。当人は一種の天才で、無駄なことは一切しないから、そういうことに身を労している世間の人間が愚かに見えたのだろう。
「お暑うございます」 というのは挨拶で礼儀なのだが、それに対して 「夏は暑いのが当たり前です」 と言い返されれば、誰でもむっと来る。確かにそれは事実なのだが、人間は感情の動物なのである。蔵六はそこがわからなかった。いや、そんなことを理解するのは無駄だと割り切っていたというのが正しいかもしれない。
だが、開業医としてはこれは致命的な性格である。そんなわけで長州の人々は蔵六を 「売れない医者」 としてしか見なかったのだが、なにしろ適塾の塾頭になるくらいだ。だから蘭業の才は一流である。そこでむしろ他藩が蔵六に注目した。あの、人の才を見抜き活動の場を与えることが得意の伊達宗城 (ダテムネナリ) が蔵六に注目したのである。
宇和島に招かれた蔵六は蘭学初の教授として水を得た魚のように活動を始めた。蔵六自身、もっとも適性があると感じていたのは医者ではなく軍人である。それも戦闘員というよりは、軍全体の形をどう考えるか、あるいは大部隊をどう展開するかという、軍政あるいは指揮の方面に才能があると自分でも気付いたのだ。 「伊達宗城」 の項で述べたように提灯家嘉蔵 (チョウチンヤカゾウ) の黒船造りを、船体の部分を受け持つことによってサポートしたのも蔵六だが、蔵六の関心は次第に武器すなわち銃や大砲に移っていく。
この間、長州藩でも蔵六のことが見直されるようになった。一昔前、アメリカで有名になった日本人が 「逆輸入」 でもてはやされるような現象があったが、あんなものだと思えばいい。幕府は第一次長州征伐に成功したが、第二次には敗れた。薩摩がこれを支持しなかったこともあるが、長州の勝利の影には蔵六の卓越した軍事指揮があった。こうして蔵六は藩主に激賞され大村の姓を与えられ、益次郎と改名した。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ