〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/21 (木) 孝明天皇 (二)

崩御ですべてが一変

要するに孝明天皇は攘夷論者だが、根っからの佐幕派なのでる。
「朝廷は祭事、幕府は軍事」 という鎌倉幕府以来の伝統主義者といっいぇもいい。だから同じ攘夷論者でも幕府と常に対立しいぇいた長州藩や、その活動を支援する 「尊攘派浪士」 のことはことのほか嫌っていた。「尊」 とは 「尊皇」 つまり 「勤皇 (天皇家に忠義を尽くす) 」 のことだから、天皇が 「勤王の士 を嫌うというのは矛盾しているように見える。しかし、彼等の言う 「勤皇」 の中味は 「実際の天皇の考え」 この場合なら 「孝明天皇の御意志」 とは異なっているところがあった。
いわゆる 「天皇制」 と呼ばれるものは決して 「天皇独裁政権」 ではない。もしそれが独裁体制ならば、天皇の意思に反することが行われるはずがないではないか。これはいわゆる近代天皇制でも同じことなのだが、日本の一部の歴史学者にはこの点をあえて無視して 「責任論」 を展開する人々がいるから注意を要する。金日成体制のようなものが本当の意味の独裁政権である。
とにかく帝はそういう立場だったので、幕府に選ばれて京都の治安を回復するためにやってきた、京都守護職松平容保には大変な好意を持った。帝は、この四歳年下の容保を、ある時は弟のように、またある時は頼もしい護衛者として見ていた。
その肩入れぶりは礼儀的な君臣関係をはるかに越えたものだった。帝は、長州の勢力が朝廷にのびて来た時、自ら筆を取り容保に 「お前だけを頼りにしている」 という内容の直筆の書簡を送ったほどである。これを特に 「宸翰 (シンカン) と呼ぶが、天皇が武家に宸翰を送ったのは南北朝時代に後醍醐天皇が新田義貞に送ったという例があるだけで、しかも 『太平記』 にある本当かどうかわからないエピソードなのだが、容保のは本当に話である。
容保は感激のあまり泣いた。そして、ますます 「勤皇」 の志を固めた。容保にとっての 「勤皇」 とは言うまでもない、孝明天皇の御意志に添って 「朝敵」 つまり長州や浪士たちを一掃することである。新撰組の活動も、まさに容保の期待に叶うものだった。
ところが事情は一変した。
孝明天皇が崩御したのである。三十六歳の若さであった。孝明帝の死後は何もかも変った。
徳川慶喜は大政奉還をして恭順の姿勢を示したのに、いつの間にか 「慶喜を殄戮 (テンリク) せよ (ぶち殺せ) 」 という倒幕のみっ密勅 (天皇の秘密命令) が薩摩と長州に出る。この天皇とは明治天皇である。
このため薩長は 「官軍」 徳川は 「朝敵 (賊軍) 」 ということになった。容保も同様である。会津は 「官軍」 に攻められ容保は降伏せざるを得なかった。賊の汚名を着せられた容保は、小さな竹筒に例の宸翰を入れ、死ぬまで首から下げていた。
孝明帝の死はその後の歴史を大きく変えたのである。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ