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2009/05/21 (木) 孝明天皇 (一)

攘夷要求する一方で幕府を支援

1868年 (慶応四、後に明治と改元) 、薩長両軍を主体とした 「官軍」 は、江戸への追撃を開始した。その先頭には二旒 (リュウ) の錦旗 (キンキ) が翻っていた。菊の御紋章が描かれた、いわゆる 「錦 (ニシキ) の御旗 (ミハタ) である。
「宮さん、宮さん、お馬の前にひらひらするのはナンジャイナ。トコトンヤレトンヤレナ」 ───
松下村塾出身の品川弥二郎 (シナカワヤジロウ) (後の内相) が作詞した。日本最初の 「軍か」 いや 「PRソング」 というべきか、それが日本最初の軍楽隊の演奏と共に誇らしげに歌われていた。ちなみに続きはこうだ。 「あれは朝敵征伐せよとの、錦の御旗じゃ知らないか、トコトンヤレ、トンヤレナ」
もちろんここでいう 「朝敵」 とは幕府それも将軍 (正確には辞官していたので前将軍) 徳川慶喜。
しかしおかしいではないか。禁門の変の時には、いま 「官軍」 となっている長州の方が 「朝敵」 だったのである。だからこそ十四代将軍徳川家茂 (イエモチ) は長州征伐をしたのだ。それもちゃんと天皇の許可 (勅許) を取ってのことである。
禁門の変 (1864) からこの時点までわずか四年である。
では、その四年の間に何が起こったのか?。
しかし、 「討つ側」 と 「討たれる側」 がまったく逆転した最大の理由は、孝明天皇が崩御されたから、なのである。
孝明天皇は天保二年 (1831) 先代仁孝 (ニンコウ) 天皇の子として生まれた。そして弘化 (コウカ) 三年 (1846) 、十六歳 (数え年) にして父天皇の崩御を受けて即位した。
人間を、保守と革新に分けるなら、この帝は明らかに保守主義者だった。たとえば、外国はすべて野蛮で外国人は神聖なる日本に入れるべきではないと信じていた。
日本も昔は唐や百済に使者を送り、貿易したり戦争したりしていたし、戦国時代にはkィリシタンの伴天連 (バテレン) がこの国に在住していたこともあったが、この時代の人間の多くはそのことを知らなかった。鎖国とは幕府の定めた法ではなく、日本の悠久の昔からの原理だと思い込んでいた。
だからこそ帝は、幕府が 「勝手」 に開国したのを怒った。一刻も早く攘夷を実行せよと要求した。妹の和宮 (カズノミヤ) を将軍家茂に嫁がせたのも、そのためだ。
しかし、幕府を倒そうという気はなかった。
実際の政治とくに軍事は幕府がやるべきであるという信念を持っていた。実際、建前としては、天皇が将軍 (征夷大将軍) を任命しているのは、そのためなのである。
当然、幕府の中で、誠意を持って国のために働こうという人物を愛した。 会津中将松平容保は、最もお気に入りの 「臣」 であった。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ