〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/20 (水) 井伊 直弼 (二)

狭量な判断で、有為の人材を処刑

「開国」 は避けられない事態であった。
当時の先覚者が見通していた通り、日本には黒船に対抗できる大砲も海軍もないからである。
ならば、それを覚悟の上で、条約を結ぶのならいかに有利な形で結ぶか、あるいは、いかに大砲や海軍を装備するか、あらかじめ準備することはいかようにも出来たはずだ。しかし、幕府の対応はすべて 「泥縄式」 で終った。
だから直弼による開国、具体的に言えば日米修好通商条約の調印によって、日米間のみならずヨーロッパ諸国とも著しい 「不平等」 が生まれたのは、直弼だけの責任ではない。むしろ彼は前任者の 「先送り」 のツケを払わされたといってもいい。あそこで直弼が決断しなければ、ペリーは大砲を江戸城近くに撃ち込み、もっと屈辱的な形で 「条約」 を結ばされていただろう。アメリカは公益にかけて引き下がるつもりはなかったからだ。
ところが 「ガイジンは斬り殺せばいい」 「脅せば去る」 などと叫ぶ攘夷論者は、直弼の事を口を極めて非難する。しかし、 「ケシカラン」 と叫ぶ彼らには、日本を守る具体策など何もない。ちょうど現代の護憲論者とそっくりで 「憲法を守れ」 と口々に叫ぶが 「では侵略されたらどうする?」 との問いに対する具体的な答えは何もない。というか、それを考えるのを拒否する。それを考えたら 「護憲」 の不可能がわかり都合が悪いからだ。
攘夷と護憲は 「空想的国防論」 という点ではまるで同じで、この時代攘夷論者がしばしば口にしたのは 「ぶらかし」 ということだった。要するに 「口先でたぶらかしてごまかせ」 ということで、結局 「問題の先送り」 になるだけだが、こういう連中にとっては、 「考えなくて済む」 だけでもありがたいことだった。
実際に政治を担当しなければならない直弼にとって、こういう連中の無責任さには腸が煮えくりかえる思いがしただろう。それなのに、彼等は幕府が勅許 (天皇の許可) を得ずして開国したのを 「違勅の罪」 だと責めたてる。こんな 「口舌の徒」 に国を任せておけないと直弼は考えたのだろう。
そこまでは当然だ。ところが問題は直弼が 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」 とばかりに、攘夷論者をすべて幕府の敵と考えたことだ。
世の中には様々な考え方があるし、ひと口に攘夷論者と言っても水戸斉昭 (ナリアキ) のようにヒステリックなものもいれば、吉田松陰のようにアメリカ留学を志す者もいる。ひとつにはくくれない。
ところが直弼はこれらすべてを 「幕府に仇なす者」 と見た上で、安政の大獄で殺せる限り殺してしまった。水戸斉昭は御三家の当主だから処刑は出来なかったが隠居に追い込み、吉田松陰、橋本左内ら多くの有為の人材を処刑した。せめて流罪にしておけば直弼の評価もかなり違ったろう。人の上に立つ人間として、直弼はあまりにも狭量だった。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ