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2009/05/20 (水) 井伊 直弼 (一)

開国と安政の大獄、分かれる評価

幕末の大老井伊直弼は評価の分かれる人物である。
国内、特に攘夷派の反対を押し切って開国 (日米修好通商条約) に踏み切った。果断な精神を持った政治家である、という肯定的な評価がある。
しかし、その一方で安政の大獄で多くの志士を死に追いやった張本人、暗殺された (桜田門外の変) のも当然だという否定的な評価もある。
一体なぜこんな評価の混乱があるのだろうか?。それは直弼の思想と行動に矛盾がある。いや矛盾があるように見えることが最大の原因だと私は考える。
直弼は、譜代大名中の名門 「徳川四天王」 の一つ伊井家の十四男として生まれた。十四男というのは当然正妻の子ではない。この時代大名の子に生まれても、次男以下では養子の口を探すか、生涯 「部屋住み」 として嫁も貰えず実家の 「厄介者」 として 「捨扶持 (ステブチ) をもらって生きるしかなかった。
直弼も三十六歳まで彦根城下の埋木舎 (ウモレギノヤ) でそういう暮らしであった。ただ、直弼が他の厄介者と違ったのは、国学、茶道、剣術といった学問や武芸に打ち込み、おのれをいつか国のために役立たせようと努力していたことだ。
その努力が報われる日が来た。兄たちが他家へ養子に行ったり亡くなったりしたことで、本来なら本家を継げるはずのない直弼に、彦根藩主の座が回ってきたのだ。
そして三年後の嘉永六年 (1853) ペリーは来た。
時の老中安部正弘 (アベマサヒロ) は薩摩藩主島津斉彬 (ナリアキラ) らと志を同じくする開明派であった。要するに、攘夷攘夷と声高に叫んでも国は守れない、現実的な対応をする他ない、という論者だった。しかし老中は五人での合議制であったので、一人だけが突出することは難しい。これは幕府政治が持っていた根本的弱点で、合議での一致ということにこだわるために果断な決断が出来ない。一番いいのは 「先送り」 ということにもなりかねないのだ。しかも、こうした中、日米和親条約を認めた阿部は心労がたたったのか三十九歳の若さで死ぬ。彼を継ぐ形となった老中堀田正睦 (マサヨシ) は、初代駐日アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの強硬な要求に屈せざるを得ず、日米修好通商条約締結へと動き始める。
ここで浮上したのが、条約勅許問題である。
祖法 (先祖が定めた法) を変えるためには、天皇の許可 (勅許) が必要だ、というものだ。
江戸幕府は開設以来、朝廷の意向など無視してきた。朝廷を棚上げにし、幕府が実際の政治を行う。これが武家政治というものであった。ところが幕府も奨励した朱子学の浸透は、朝廷 (天皇) こそこの国の正当な主権者であり、それを尊重しなければならないという風潮を生んでいた。
これは幕府の権威が失墜したということでもあり、それだからこそ合議制に立つ老中ではない、果断な決断が出来る人間が求められることになったのである。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ