〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/20 (水) 坂本 龍馬 (二)

大政奉還と薩長連合

慶応三年 (1867) 六月、海援隊長坂本龍馬は土佐の後藤象二郎を連れて、長崎を出港し兵庫へ向かった。
その船中で、龍馬は今後日本が進むべき方針を八ヶ条にまとめて (船中八策) 後藤に示した。
現代語訳すると次のようになる。
一、 政権を幕府から朝廷に返還し、朝廷の下に日本を統一すること。
二、 議院を設け議員を置き、すべてはここで協議の上決めること。
三、 天下の人材を登用し無用の官は廃止すること
四、 外国と広く交際し対等の条約を結ぶこと。
五、 無窮の大典 (憲法) を作ること。
六、 海軍を増強すること。
七、 近衛兵を置き帝都を守ること。
八、 外国との為替レートを改め不平等のないようにすること。
現代の目から見ればあたり前のことである。ひとによっては 「海軍増強」 「近衛兵」 がひっかかるかもしれないが、この時代は 「黒船」 という欧米列強の海軍に、日本の独立が脅かされていた時代である。強力な海軍がなければ独立は守れないし、そのためにも国家の中核である朝廷 (天皇) はしっかりと守る必要がある。この時代は、各藩が幕府の命令で御所を警備していただけで、天皇直属の兵はいないのだから。
また 「あたり前」 のことに見える人は、逆を考えて欲しい。これが 「献策」 になるということは、まだこの内容は実現していないということなのだ。つまり、慶応三年の日本は 「まだ幕府が政権を握っており議会など影も形もなく、無用の官がはびこり有為な人材はなかなか登用されず、国家の基礎である憲法もなく、海軍は微力で外国と対等な条約も結べず、不公正な交換レートに悩まされていた」 ── ということなのである。
龍馬は 「師」 の勝海舟、そしてその勝つのよき理解者であった幕臣大久保一翁 (イチオウ) から、平和裡に 「政権交替」 を実現するための方策として 「大政奉還」 のアイデアを示唆された。そしてそれを何とか幕府に献策しようとしたが果たせず、後藤象二郎を通じて土佐藩主山内容堂 (ヤマノウチヨウドウ) から幕府に献策してもらおうと考えていた。そのために骨子をこの 「八策」 の形で後藤に示したのである。
この試みは成功した。将軍慶喜は容堂の提案を受け入れて大政奉還は実現した。
ところが、龍馬のもう一つの功績 「薩長連合」 の形成は、成功してしまうと龍馬の意図とは逆に動いた。薩長はあくまで 「幕府討つべし」 と朝廷から倒幕の勅 (命令) を受けたのである。
「大政奉還」 ろいう無血革命路線と 「薩長連合」 という倒幕路線、この両方に絡んでいたことが龍馬の偉大さを証明しているが、不幸なことは幕府の一部がこのことによって龍馬を 「幕府にとって邪魔な存在」 と誤解したことである。暗殺はこうして起こった。テロは常に空しいが、龍馬の場合は特にそうだ。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ