慶応三年 (1867) 六月、海援隊長坂本龍馬は土佐の後藤象二郎を連れて、長崎を出港し兵庫へ向かった。
その船中で、龍馬は今後日本が進むべき方針を八ヶ条にまとめて (船中八策)
後藤に示した。
現代語訳すると次のようになる。
一、 |
政権を幕府から朝廷に返還し、朝廷の下に日本を統一すること。 |
二、 |
議院を設け議員を置き、すべてはここで協議の上決めること。 |
三、 |
天下の人材を登用し無用の官は廃止すること |
四、 |
外国と広く交際し対等の条約を結ぶこと。 |
五、 |
無窮の大典 (憲法) を作ること。 |
六、 |
海軍を増強すること。 |
七、 |
近衛兵を置き帝都を守ること。 |
八、 |
外国との為替レートを改め不平等のないようにすること。 |
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現代の目から見ればあたり前のことである。ひとによっては 「海軍増強」 「近衛兵」 がひっかかるかもしれないが、この時代は
「黒船」 という欧米列強の海軍に、日本の独立が脅かされていた時代である。強力な海軍がなければ独立は守れないし、そのためにも国家の中核である朝廷
(天皇) はしっかりと守る必要がある。この時代は、各藩が幕府の命令で御所を警備していただけで、天皇直属の兵はいないのだから。
また 「あたり前」 のことに見える人は、逆を考えて欲しい。これが 「献策」 になるということは、まだこの内容は実現していないということなのだ。つまり、慶応三年の日本は
「まだ幕府が政権を握っており議会など影も形もなく、無用の官がはびこり有為な人材はなかなか登用されず、国家の基礎である憲法もなく、海軍は微力で外国と対等な条約も結べず、不公正な交換レートに悩まされていた」
── ということなのである。
龍馬は 「師」 の勝海舟、そしてその勝つのよき理解者であった幕臣大久保一翁 (イチオウ)
から、平和裡に 「政権交替」 を実現するための方策として 「大政奉還」 のアイデアを示唆された。そしてそれを何とか幕府に献策しようとしたが果たせず、後藤象二郎を通じて土佐藩主山内容堂
(ヤマノウチヨウドウ) から幕府に献策してもらおうと考えていた。そのために骨子をこの
「八策」 の形で後藤に示したのである。
この試みは成功した。将軍慶喜は容堂の提案を受け入れて大政奉還は実現した。
ところが、龍馬のもう一つの功績 「薩長連合」 の形成は、成功してしまうと龍馬の意図とは逆に動いた。薩長はあくまで
「幕府討つべし」 と朝廷から倒幕の勅 (命令) を受けたのである。
「大政奉還」 ろいう無血革命路線と 「薩長連合」 という倒幕路線、この両方に絡んでいたことが龍馬の偉大さを証明しているが、不幸なことは幕府の一部がこのことによって龍馬を
「幕府にとって邪魔な存在」 と誤解したことである。暗殺はこうして起こった。テロは常に空しいが、龍馬の場合は特にそうだ。 |