〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/20 (水) 沖田 総司 (五)

最期の軍歴は甲陽鎮撫隊

「沖田伝説」 の最たるものは、 「美男」 ということと、その死の床で酔って来た黒猫を斬ろうとしたが果たせずにそのまま絶命したというものだろう。
これも 「名場面」 だが、果たしてそのシーンはあったのか?、沖田の最期を検証してみよう。
鳥羽・伏見の戦いの頃 (慶応四年 1868) には、沖田は既に戦闘には参加していない。この戦い、実は近藤も参戦していなかった。その前年の暮れ、近藤は二条城から当時本拠としていた伏見奉行所へ帰る途中、街道で狙撃され右肩を負傷していた。下手人は、伊東甲子太郎 (カシタロウ) の 「御陵衛士 (ゴリョウエジ) 」 の残党だと言われる。近藤は痛みをこらえて落馬もせず、そのまま伏見まで逃げ帰った。その時犯人探索のため何人かの隊士が出動したが、沖田はそのメンバーにも入っていない。
近藤の傷は意外に深く、大阪城内で幕府典医松本良順 (リョウジュン) の治療を受けることになったが、このとき近藤は沖田を同行させた。彼の体を気遣ってのことだろう。
鳥羽・伏見の戦いでは、新撰組は土方の指揮の下で戦った。この戦いで土方が剣術使いの時代は終ったと悟り、洋装断髪に踏み切ったことは既に述べた。沖田は近藤と共に大阪城にいたが、幕府の総司令官であるはずの将軍徳川慶喜が軍艦開陽丸 (カイヨウマル) で江戸へ逃げ帰ってしまったので、その後を追う形で軍艦富士丸に乗り江戸へ回った。慶喜が敵前逃亡したのは、薩長軍が 「錦の御旗」 を押し立てて進軍してきたからである。
もともと水戸徳川家の出身である慶喜は、水戸黄門 (徳川光圀) 以来の尊皇思想を叩き込まれて成長した。日本人はすべて天皇の忠臣であるべきで、天皇の敵 (朝敵) となることはいかなる理由があっても許されない、という思想である。だから慶喜は江戸に戻っても薩長軍と戦うつもりはなかった。
一方、薩長軍はこの 「慶喜の首」 を取ることによって世の中が変ったことを示そうとしていた。この慶喜の 「絶対恭順」 方針を受けて、江戸城無血開城を実現したのが勝海舟だ。 「甲州を鎮めて官軍に対抗したらどうか?」 この言葉に近藤も土方も賛成し、甲陽鎮撫隊が結成された。
彼等は 「大名格」 の行列を組み懐かしい故郷武州を通って甲州に向かった。この甲陽鎮撫隊への参加が、沖田の 「軍歴」 の最後となった。沖田は土方の故郷日野まではなんとかついて来た。だが、それ以上は無理で、江戸に戻って療養することになった。
その地が千駄ヶ谷であることは確からしい。しかし、どういう状況で死んだのかは今ひとつ定かでない。板橋で斬首された近藤の死を知らず、少し 「長生き」 したというのは本当らしいが、いずれにせよ、 「黒猫斬り」 は本当ではあるまい。新撰組の 「宣伝マン」 子母澤寛の創作である可能性が高い。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ