〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/19 (火) 土方 歳三 (四)

最期まで奮戦

負傷した近藤に代わって、土方が指揮をとった鳥羽・伏見の戦い。
結果は惨敗だった。しかし、土方は釈然としなかった。負けたのは兵員の資質の差ではな い、武器の優劣によるものだ。敵は新式銃、大砲によって狙い打ちしてくるのに、日本刀を 片手に突撃するのでは勝てるはずもない。いわば火力が段違いなのである。
土方が洋装断髪に踏み切ったのは、この敗北がきっかけのようだ。
その彼にとって痛恨だったのは、盟友であり同士でもある近藤の命を救えなかったことだろ う。
江戸へ背走した新撰組に対し、幕臣勝海舟は甲府鎮定を命じた。甲府というのは幕府直 轄地 (天領) で、いざという時の将軍の避難所でもあった。武州三多磨育ちの土方のとって も関心の深い土地である。
江戸城無血開城、すなわち官軍への実質的な降伏を目指していた勝にとって、勤皇派の 憎しみを買っている彼等が邪魔だったという説もある。
とにかく彼等は大名に近い格を与えられ、大得意で甲州街道を西へ向った。
だがこの甲陽鎮撫隊 (チンブタイ) の歩みは遅かった。道中、近藤の故郷でも土方の故郷 でも一泊した。「故郷に錦を飾ろうという意識があった」 と後世の批判を浴びているが、この 隊は当初から兵力不足に悩まされているから、あるいは 「人集め」 のためだったのかもし れない。
しかしこの遅滞のため官軍に先を越された。乾退助 (板垣退助) の率いる土佐藩兵が甲府 城を占領してしまったのである。遅ればせながら一戦線を挑んだが、ここでも火力の差によ って撃退される。近藤は兵を募集しつつ総州 (千葉県) 流山 (ナガレヤマ) に移動した。お そらく会津に向かい最後の戦いをするつもりだったのだろう。そこへ官軍からの出頭命令が 来た。近藤は 「大久保大和」 という変名を名乗っていたから、出頭しても大事あるまいと考 えた。土方もそれの同意した。ところが官軍はとっくに近藤の正体を見破っていたのである 。近藤はまんまとおびき出され、戦わずして捕らえられ斬首されてしまった。ここにおいて土 方は悔いのないように徹底的に戦う決心をしたに違いない。
まず会津で戦ったが、官軍の攻撃の前に到底持ちこたえられぬと判断し、仙台へ移動しそ こで降伏に反対し艦隊ごと脱走してきた榎本武揚 (エノモトタテワキ) と会い、榎本の蝦夷 新政府に参加することになる。
陸軍奉行並というのがそのポストだった。彼は箱館 (当時はこう表記した) の地で奮戦した 。五稜郭の戦いとよくいわれるが五稜郭は司令部のあったところで、実際の激戦地は港に 突き出た要塞弁天台場や函館山だった。ちなみに今に伝わる土方の写真は、この箱館で 撮影されたものたとも言われる。
土方の最期は実はよくわからない。とにかく降伏に決した司令部の中で一人戦闘継続を唱 え出撃したことは確からしい。敵に突撃し、銃弾を浴びたのだろう。享年は近藤と同じ三十 五であった。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ