〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/19 (火) 土方 歳三 (三)

名誉より任務

新撰組の 「士道」 は、その集団戦法に良く現れている。簡単に言えば 「一対一」 ではなく 「一対三」 かそれ以上、つまり一人の敵に対して三人で立ち向かうというものだ。これは戦国時代ならば 「足軽の戦法」 というべきものである。
「武士道」 では、堂々と名乗りを上げ一対一で戦う。それが名誉を重んじる武士だ、という考え方がある。もっとも、これが 「完成」 したのは江戸時代に入ってからで、戦国時代には 「夜討ち朝駆け」 は決して卑怯ではない。むしろ、不意を襲われるヤツの方が悪い、という考え方はあった。しかし、世の中が平和になるにつれ、そういう考え方は廃れ、いわば 「フェアプレイ」 が重んじられるようになる。宮本武蔵も 「約束の時間」 には遅れたが 「飛道具(鉄砲) 」 などは使わず、木刀で佐々木小次郎を倒している。
しかし、新撰組はそうではなかった。新撰組の戦法は 「ケンカの達人」 土方がほとんど一人で考えたと見ていいと思うが、とにかく敵を倒すことを最優先課題にした戦法であった。 土方の苦心はわからないでもない。
彼等の敵は、日本中から選りすぐられた剣客であった。階級は関係ない。とにかく剣技の達人であれば、 「志士」 の名で迎えられた。土佐藩出身で 「人斬り以蔵 (イゾウ) と恐れられた岡田以蔵は、姓を名乗って入るものの土佐に帰れば 「無宿人鉄蔵」 に過ぎなかった。土佐勤皇党の武市半平太が、その剣技を見込んで 「同士」 として遇したのである。後に、彼等の暗殺テロが土佐藩で問題になり、処罰を受けた時に、藩士の武市は武士の礼をもって切腹にされたが、岡田は 「無宿人鉄蔵」 として斬首の刑となった。彼も武州三多摩に生まれれば、間違いなく新撰組に入っていたに違いない。。それだけに剣にかける情熱は大きかった。他には薩摩の田中新兵衛 (シンベエ) 、中村半次郎など腕利きはゴロゴロいる。土方、沖田あたりの幹部なら勝負になっても、平隊士では歯が立たない。だが、そうした連中を必ず倒さねばならない。それが徳川に対して 「誠」 を貫くことでもある。土方はそう考えたのだろう。目先の名誉よりも任務を確実にこなすことが本当の意味の 「忠義」 だということだ。これが 「士道」 である。
しかし、それにしても土方らの戦法は生まれながらの武士から見れば、随分と 「えげつない」 ものであったろう。新撰組参謀でありながら脱退し、 「御陵衛士 (オンリョウエジ) という別組織を作り、尊攘派に走った 「裏切り者」 伊東甲子太郎を始末する際、彼等は先ず伊東を酒席に誘い、散々酔わせておいてから帰り道で闇討ちにした。しかも、その死体を路上に放置し、それをエサに御陵衛士をおびき寄せて始末した。確かに戦国時代なら、こういう方法もあったかも知れないが──。
その土方が戦法を一変しなければいけない時が来た。ライバル薩摩は 「飛道具」 使いの集団である。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ