〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/18 (月) 土方 歳三 (二)

「士道不覚悟のもとに」

「120パーセントの武士道」 である局中法度は、第一条 「士道に背くな」 以下 「脱退者は許さない」 「勝手に金策してはならない」 「勝手に訴訟を取り扱ってはならない」 「死闘は許さない」 というものだが、実はこれは 「創作」 ではないか、という見解もある。というのは、これは新撰組を歴史上の 「有名人」 にした初めての著作、子母澤寛 (シモザワカン) の 『新撰組始末記』 で紹介されたものだが、実はそれ以前の良質な史料には見られないからだ。しかし、生き残りの隊士だった永倉新八が懐旧談の中で、成文化されたものはなかったがこれに類する内規はあったと証言しているから、やはりあったのだろう。
というのは、実に多くの人々が 「士道不覚悟」 の名の下に切腹させられているからだ。その記念すべき (?) 第一号は局長新見錦 (ニイミニシキ) である。初め新撰組みには局長が三人いた。あと二人は芹沢鴨 (セイザワカモ) と近藤勇である。
近藤は実力も人気もあったが、まだ無名の存在で局長となるには貫禄不足だった。その点、芹沢は水戸の有名な尊攘派組織である天狗党の残党であり、知名度の点では抜群であった。
そこで、芹沢と水戸以来の同士である新見が共に局長となり、近藤と 「トロイカ方式」 で新撰組を運営していた。しかし、芹沢らは生来粗暴で酒好き女好きの、とんでもない連中であった。
そういう連中が、 「京都守護職会津中将 (松平容保) 様御預」 の威光を笠に着て、商家を脅して金をゆすり取ったり、人の女房を奪ったりと、散々無法な行動を繰り返した。ここに至って、会津藩も堪忍袋の緒を切って芹沢一派を粛清するよう近藤に命じた。近藤中心の新撰組を望んでいた土方にとって、これは渡りに船の要請だった。
まず、土方は芹沢の力を殺ぐために新見に狙いをつけた。一人で酒を飲んでいた新見のところに押しかけ 「士道不覚悟」 のもとに無理矢理詰腹を切らせた。
芹沢暗殺の場合はさらにえげつない。
芹沢が泥酔し、当時妾にしていた 「お梅」 という美女と同衾しているところに、暗殺隊を差し向けたのだ。
土方が直接指揮を取ったらしい。沖田総司、原田左之助 (サノスケ) 藤堂平助、井上源三郎ら、試衛館以来の信頼できる同士がそのメンバーだったようだ。結局、芹沢はなぶり殺しのように殺され、お梅も口封じに殺された。そして、新撰組は近藤、土方ら試衛館グループのものとなる。
新撰組は 「切った浪士」 より 「腹を切らされた隊士」 の方が多いというのは冗談だが、少なくとも十数名の隊士が腹を切らされている。また芹沢のように、斬られた者も少なくない。武田観柳斎 (カンリュウサイ) 伊東甲子太郎 (カシタロウ) あたりが有名だが、いずれも泥酔させられたところを不意打ちされている。このあたり武士道では 「卑怯」 というところだが、 「士道」 ではそうでもないらしい。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ