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2009/05/18 (月) 土方 歳三 (一)

士農工商すべてを体験

土方歳三も江戸時代の人別長 (戸籍) では、他の多くの隊士と同じく 「百姓歳三」 に過ぎない。
それゆえ 「正式の武士になりたい」 という欲望は、剣術家の養子となることによって一応その身分を得た近藤勇よりも、烈しいものがあった。
土方は、近藤 (東京都調布市出身) のすぐ近くの石田村 (現日野市) の豪農の子だ。 「名主のお坊っちゃま」 というところか。この家には 「石田散薬」 というケガの妙薬の処方が伝わっており、農作業の嫌いな土方はこの薬の生産 (薬草の採集、精製) から販売を担当していたという。薬草採りには大勢の人間を組織的に動員し、効率的に動かさねばならない。また、土方はケンカの達人でもあり、村と村のケンカでも常にうまく人を動かして勝利を収めたという。その一方で巧みなトークで石田散薬の 「セールスマン」 をやっていたというのだから、土方というのも相当複雑な人間である。商家に奉公した経験もあるという。その上剣術も達者だったというのだから、 「士農工商」 すべてを体験した男ともいえる。こんな人間は江戸時代には珍しい。
その土方が近藤と剣術を通じて知り合い、清河八郎の浪士組織募集に応じて上洛するわけだが、彼の真骨頂は新撰組という集団をいかに維持運営していくか、その課題を目の前に突きつけられたときに発揮された。
彼の生涯のキーワードは 「士道」 というものであった。 「武士道」 と同義でるようだが、少し、いやかなり違う。
意外かも知れないが、私は土方歳三という男の生涯を見る時、かってハワイやブラジルにいた日系二世や三世の姿を思い浮かべる。彼等の中には移民した国にまったく同化してしまった人々もいたが、頑固にそれを拒否した人もいた。彼等はどうしたか?。日頃から和服を着、日本食を食べ、外国語は極端に使用を制限した。彼等は意識して120パーセントの日本人になろうとしたのだ。日本人だから常に和服を着なければならない、ということはない。そんなことをしなくても日本人は日本人なのだからだ。だがアイデンティティを脅かされた人々は普通の日本人以上に 「日本人」 であろうとする。土方は 「脅かされた」 のではないが、本来 「自分は正式な武士ではない」 というコンプレックスがある。もしそれが無ければ 「武士になりたい」 とは思わないはずで、 「オレは剣術の上手な百姓で結構」 ということになるはずである。その土方が理想とした120パーセントの武士道、それが 「士道」 であったのだろう。
土方の起草になるという、有名な 「極中法度」 の第一条 「一、士道に背く間敷事 (マジキコト) 」 は、具体的に言えば少しでもそれに反する (と認定された) 者は即 「切腹」 ということである。しかし、このあまりに厳し過ぎる掟 (オキテ) は、やはりその従来の 「武士道」 とは違うものだ。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ