〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/18 (月) 近藤 勇 (五)

秀でた諜報力、機動性

ここで尊皇攘夷派 (以下、尊攘派と略す) の言い分を聞こう。 (ちなみに現在は尊皇と書く人が多いが、これは昭和になって天皇を 「王」 と表現するのはおかしいといわれてからのことだ。もともとは中国思想であり、だから当時は 「尊皇」 と書いた)
彼等の倒幕論の最大の根拠は実は 「違勅」 にある。 「天皇の命令に対する違反」 ということだ。そもそも開国に当って、勅許 (天皇の許可) を得るべきであるのに、幕府も伊井大老も 「勝手に」 開国した。それがケシカランというのである。
しかし、この論理は実はおかしい。というのは天皇家の持っていた政治の大権を剥奪し武士が実験を握ったのが 「幕府」 というものだったからだ。幕府は鎌倉の頼朝以来、朝廷を政権から遠ざけてきた。鎖国をしたのも幕府が勝手にやったことだ。それが幕末に至って 「重要なことは天皇の許可を得るべきだ」 と何故 「世論」 が変ったのか?。それはそれは皮肉なことに、江戸幕府の始祖徳川家康や水戸黄門こと徳川光圀が、朱子学を統治の学問として採用し奨励したからだ。簡単にいえば 「なぜ将軍は偉いのか。それはこの国の真の王者である天皇から将軍に任命され、実際の政治を委任されているからだ。」 ということで、だからこそ 「将軍に反逆することは、天皇に反逆するも同然」 という理屈になる。
こうした形で、もともとは三河の土豪に過ぎない徳川家は政権を正当化しようとしたのだが、、このリスクは効き過ぎた。この理論が武士共通の認識になれば 「天皇の命令を無視する幕府は倒してもいい (倒幕) 」 ということにもなるし、 「幕府が統治能力を失ったのなら政権を天皇家にお返しすればいい (大政奉還) 」 ということにもなる。「反逆」 を防ぐための教育が逆に 「反逆」 を正当化する理論となてしまった。まさに歴史の皮肉である。
その尊攘派浪士の最大の陰謀が、世に言う 「池田屋事件」 であった。正確に言えば彼等は池田屋を中心に会合を重ね、 「風の強い夜、京の町々に放火し御所を焼き払い、天皇には長州へ動座いて頂く、合わせて中川宮 (ナカガワノミヤ) など佐幕派の皇族、公卿を皆殺しにする」 という恐るべきクーデター計画を立てていた。
近藤らは首謀者の一人古高 (フルタカ) 俊太郎を捕らえ、苛烈な拷問で白状させることによって、一味の集まった池田屋を襲撃し、多数を殺傷捕縛した。その諜報力といい、新撰組なかりせばこのクーデターを未然に阻止することは不可能だったろう。しかし、それは時代の流れを逆行させることでもあった。
しかし最大の問題は、新撰組も近藤もあくまで剣術家集団であり、大砲、新式銃を使う薩長には戦場では勝てるはずもなかったということだ。
鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸へ戻った近藤は、正式に旗本 (幕臣) としての扱いを受けるが、最後は官軍に捕らえられ刑場の露と消える。 「本物の武士」 になったことで彼は満足していたのだろうか───。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ