〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/18 (月) 近藤 勇 (四)

特別警察の誕生

黒船は日本中に攘夷の嵐を巻き起こした。
攘夷とは 「野蛮人を討ち払う」 ことで、もともとは中国思想 (朱子学) の用語だったが、江戸時代の日本人は 「我こそは中華 (文明の中心) 」 と思い定めていたので、この言葉がもてはやされたのだ。今少し現代風に言えば 「外国の侵略を排除し日本国 (あるいは日本民族) の独立を保つ」 ということでもあり、 「アヘン戦争でイギリスにやられた清 (シン) (中国) の轍は踏まない」 ということでもある。
では、それを誰がやるのか、政権の主体は何であるべきか?。これが佐幕 (徳川派) と勤皇 (尊王ともいう。天皇派) の対立を生んだ。また本当の意味での攘夷 (=日本の独立) を貫くために、むしろ開国して西洋の近代技術を学んで軍制や国体を改革していくべきだ、という主張もあった。お気付きのようにこれが明治維新の考え方だ。後にその立役者となる薩摩も長州も、初めの頃はヒステリックな排外主義こそ攘夷の本道だと思い込み、それゆえに開国して通商条約を結んだ幕府を 「国を誤まる者」 として糾弾した。そして彼等 「攘夷原理主義者」 は天皇の都で打倒幕府 (倒幕) のための様々なテロや反政府活動 (尊皇攘夷) を行った。
そこで、清河清八郎が 「このような連中から、上洛する将軍様を守るために腕利きの浪人を集め京の都へ送り込んだらどうか」 と、悩む幕府を口説いたのだ。
こうして黒船以前なら絶対に有り得なかった浪士組が誕生し京へ向かった。ただ清河の狙いは別のところにあり、実はこの浪士達をそのまま尊王攘夷の先兵として活用するつもりだった。
幕府はだまされたのである。あわてた幕府は口実をかまえ清河を江戸に呼び戻し刺客を放って始末した。
この間、尊皇攘夷を叫ぶ清河に反発し、別派を作ったのが近藤勇ら江戸試衛館のグループである。土方もいた、沖田もいた。天領育ちの近藤や土方にとっては、将軍様こそ尽くすべき忠義の対象であり、清河の尊皇攘夷路線には到底受け入れられるものではなかった。しかし、こので本当の 「浪人」 なってしまった彼らは途方に暮れた。そこで近藤は名案を思い付いた。
当時、京の混乱を鎮めるために幕府は、三百諸侯の大名の中で、徳川の親藩であり最も武勇に優れていると言われた会津藩の藩主松平容保 (カタモリ) を、京都守護職という新設の職に任じていた。目的は同じ過激派浪士の取締りであり、尽くすべき忠義の対象も同じなら、頼るべきは会津藩ではないか。実はこのところ、会津藩の方から近藤に接近してきたという説もある。確かに、取り締まる側から言えば近藤は得体の知れない存在である。その真意を確かめたいところだ。
ともあれ、両者の 「合体」 は円滑に進んだ。新撰組の正式名称は 「京都守護職会津中将様御預 (オアズカリ) 新撰組」 である。 「過激派」 取り締まりのための特別警察ともいうべき組織がここに誕生した。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ