〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/17 (日) 近藤 勇 (二)

武士になりたい

近藤勇が天領 (将軍直轄領) 育ちだったというのは、われわれが今考えるより、はるかに重要なことなのである。
江戸時代、地方には藩があって城があって (陣屋の所もあったが) 藩士と呼ばれる武士がいた。藩士はれきっとしたサムライであり、たとえば百姓が武士の格好をすることすら許さなかった。江戸時代というのは身分社会で、身分社会というのは服装、髪形、持物等を見ればどんな身分か一目でわかる、というのが原則だ。だからこそ、この原則は堅く守られねばならない。ところが天領はある程度 「自由」 だった。近藤でも、正式には 「百姓歳三」 でしかない土方でも、少数の代官所の役人以外は武士はいないから、武士のマネをしてもあまり咎められなかった。しかし 「武士もどき」 であればあるほど、本当の武士になりたいという思いはつのる。そこらの武士より剣術が上手ならばなおさらのことだ。
一方、彼らのライバルとなった薩摩・長州あるいは土佐の武士はどうか?。
たとえば薩摩の西郷隆盛、長州の伊藤博文の家は貧しかった。なぜ貧しいかといえば家禄が少ないからで、特に伊藤は武士は武士でも最下級の足軽の出身だ。ではなぜ家禄が少ないかといえば薩摩藩島津家も長州藩毛利家も共に関ヶ原の敗者であるからだ。 「徳川」 に負けさえしなければこの貧乏も低い身分もなかった。彼らは 「徳川三百年」 の間そう思い続けていた。特に長州藩においてはそれは顕著で、後に高杉晋作が奇兵隊作った時に、呼びかけに応じて集まった者の中には、先祖は武士だったが徳川のために没落したという家の子孫が少なくなかった。
新撰組と奇兵隊はまったく対極の組織であるように見える。一方は 「佐幕 (幕府を護る) 」 であり一方は 「倒幕」 が目的だからだ。だが、両者の行動を支えるエネルギーは共通している。それは 「身分を飛び越えて正式な武士になりたい」 ということなのである。
土佐藩の場合は少し事情が複雑だ。薩摩、長州が関ヶ原の 「負け組」 であるのに対し、土佐藩山内家は 「勝ち組」 だったからである。しかし、坂本龍馬の家は土佐藩士ではなく、関ヶ原の敗北によって領地を失った長曾我部家の遺臣の家柄だ。つまり彼自身は 「負け組」 の出身なのである。 「負け組」 は 「勝ち組」 の土佐藩に路上で行き会えば土下座して迎えなければならなかった。身分も郷士と呼ばれ一段下であった。龍馬の場合は 「正式な武士になりたい」 というよりは 「そういした身分の差を解消しよう」 という高邁な理想があったが、それにしても出発点は 「身分社会の抑圧に対する反発」 なのである。
近藤勇が新撰組を結成するきっかけとなる浪士組の結成を呼びかけたのも、出羽国庄内の 「武士もどき」 の郷士清河八郎であった。
幕末史は 「武士になりたい男たち」 の抗争史でもある。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ