〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

2009/05/17 (日) 近藤 勇 (一)

天領に育つ

近藤勇といえば新撰組 (新選組とも書く) の局長として、あまりにも有名だが、彼や同素である土方歳三、沖田総司らが、なぜ時世に華々しく登場したのか?そして、なぜ幕府にあれだけ忠を尽くしたのか?いまひとつ認識されていないようだ。
人間が一生の行動を決める際、その要素はいくつかあるが、かなりの影響を度を持っているのが、その風土であろう。
近藤勇は天保五年 (1834) 武蔵国 (ムサシノクニ) 多摩郡 (タマゴオリ) 上石村 (現東京都調布市) の百姓宮川久次郎の三男坊として生まれ、幼名は勝五郎といった。 このあたりは昔から人々の気が荒く、喧嘩も多く、武芸の盛んなところでもある。父久次郎が子供の頃、家に強盗が入ったことがあった。命の危険を感じた久次郎は武芸の必要性を痛感し、家に道場を建てて剣術の先生を招いて出稽古をつけてもらうようになった。こうした環境の中、当然勝五郎も剣術に親しむようになり、特に兄弟の中では一番上達が早かった。剣の師は当時江戸で実践的な剣法として評判が高かった天然理心流 (テンネンリシンリュウ) の三代目宗家近藤周助だった。周助は勝五郎の剣才に注目し、養子とした。そして、江戸市谷 (イチガヤ) にあった天然理心流の道場 「試衛館」 の後継者にした。
近藤勇の誕生である。
後に生涯の同士となる土方歳三は同門の後輩であり、沖田総司は養父周助の 「試衛館」 内での内弟子である。
沖田は奥洲白河 (シラカワ) 藩士の子だが、土方は同じ多摩郡石田村の出身で、まさに同郷であった。
実は、近藤の生家の 「宮川」 も 「土方」 もいわば 「隠し姓」 というべきものである。なぜなら彼らは正式な武士ではなく、あくまで身分は百姓だからからだ。近藤も土方も裕福な農家の生まれで、共に農作業を嫌って剣術ばかりやっていたという共通点がある。彼らは正式なサムライになりたかった。格好も武士で、なまじの武士より剣ははるかに上手なのにもかかわらず人別長 (戸籍) では 「百姓某」 でしかない。
この多摩という土地は、彼らを 「父子の気分」 にさせる様々な要素があった。一つは八王子千人同心の存在である。同門の井上源三郎はこの千人同心の子だが、千人同心というのは戦国の昔武田家が滅んだ時、徳川家に再仕官できなかった身分の低い武士たちに、土地を与え屯田兵としたものなのだ。つまり 「お前たちにやる禄米はない。だから代わりに土地をやる。これで自活し有事には将軍家のために働け」 ということだ。このあたりは天領のつまり将軍家直轄地であり、住民たちは千人同心でなくても 「将軍様の家来」 という意識を持っている。権力者は農民が武芸を学ぶことは好まないが、ここはそうではなかった。当然そこで育った人間は、いざとなれば武芸を将軍様のために役立てよう、という意識を持つようになる。

『英傑の日本史 新撰組・幕末編』 著者:井沢 元彦  発行所: 角川書店 ヨ リ